2025年5月30日金曜日

シュリンクフィルムシーラーの台を製作

完成したシーラー台(塗装済み)

印刷物の成果品を納品する際、印刷所から客先へ直送の場合と、一旦ココに納品された物を梱包し直して納品する場合がある。一旦ココに届いた物は通常25部または50部ごとに再パックして発送する。その際のパックにはシュリンクフィルムというのを使う。ロールのフィルムをシーラーで封をしながらカットし、これをヒートガンやドライヤーなどでフィルムを収縮させ密着させる。

今までは下の写真のように作業用のワゴンの上にシーラーという機械を置き、向こう側にフィルムのロールを置き使っていた。手前には高さ調整のために厚い画集を3冊置いた。

シーラー

これでなんとか作業はできたのだが、フィルムのロールは結構重いのでシールしては引き出しまたシールして引き出す作業の際、引き出すのは少し力が必要で、出し過ぎた分を戻すのも面倒だった。ただしシール作業そのものの頻度が少ないので我慢して使っていた。ところが最近、成果物を一旦ココに納品する機会が増え、したがってこの装置を使う頻度も増えてきた。そうなるともう少し作業しやすくしたい。そこでシーラーの台を製作することにした。

まずはいつものように図面を描く。

図面

材料は余っていた集成材の棚板を使うことにした。工房でカットし組立て、それからサンドペーパーがけに半日くらいで完成した。近々使う予定なので塗装は乾燥に時間がかかるので一旦このままとした。

シーラー台

普段使わないときは半分に折りたたんで収納できるようにした。

折りたたんだ状態

これでも結構大きいが使い勝手を優先した。

シュリンクフィルムをセット

これならストレスなく作業できそうである。

今回は簡単な工作だったが、こうしたちょっとした物でもあると作業性が格段によくなるので製作して正解だった。今回のカタログは3000部の納品、これを50部ずつにパックしたので60パック、シーラー台が大活躍した。


その後、塗装してこれで完成である。最後にカバーをかけてパックしたカタログとともに写真を撮った。

カバーをかけたシーラー台とパック済みのカタログ

カバーは昔作った風呂敷を暫定で使うことにした。ちゃんとしたカバーはそのうち作ればいいだろう。





2025年5月14日水曜日

月が好き

 図書室が完成して倉庫の棚も付け終わった。仕事も少しずつ増えてきているが例年に比べればまだ半分以下である。

という訳で次に何を作るか考えることにする。

さて今日は年一度のメディカルチェックアップのためいつものクリニックへ行った。すごく気候がよく外は気持ちがいい。クリニックは少し混んでいていろいろな検査で2時間半ほどかかったが待ち時間はずっと読書していたのでまったく苦にならなかった。松岡正剛著「ルナティック」以前読んだ本だがもう一度読んでいる。松岡さんの本の中では特に好きな一冊。月は特別なのだ。

私も月は大好きで、思えば今の世の中は都会はもちろん結構な田舎でも夜に真っ暗になることはほとんどない。都会は昼間と同じくらい明るいし、田舎も街灯は多い。だから月のことは気にしないでも生活に何ら支障はない。だがもし電気がなかったら夜は月明かりだけになる。そうなると満月に限らず夜空に月があるかないかというは人にも動物にも一大事だ。月さえ出ていれば夜道でもそこそこ歩くことができる。

だからその昔、月とはありがたいものであったことが容易に想像できる。しかし反面本来、闇によって消し去られるものも情け容赦なくつまびらかにさせる月には秘密を暴くという性格を重ねて捉える向きもあった。

話は変わるが、人は他人のことが気になって仕方がない生き物だと言うことは以前会社勤めをしていたときに思い知った。特に女性はそうらしいがいやいや男もあまり変わらない。幸いウチは私もカミさんも他人のことはどうでもいいし、他人に詮索されるのがキライだった、今でもキライだ。カミさんは以前会社で働いていたときも他の女性社員との会話が人の噂話ばかりで中に入れない、と言っていたし、娘の幼稚園のママ友ともお茶に行くのは苦手・・・とボヤいていた。

私は男だって同じだよ、昼食行っても夜飲みに行っても、誰々はどうだこうだとそんな話が好きなのが何人もいるよ、と。

そしてそんな相手に「そう?」と気のない返事をしても全然わかってくれなくてうんざりだった。

私の母も以前田舎住まいをしていたとき、車に近所のおばちゃんを乗せてあげて街まで行ったときすれ違う車をみてそのおばちゃんが「あれはどこどこの誰々だが今頃どこにいくのかしら」とか言っていてうんざりだと言っていた。小説では赤毛のアンにレイチェル・リンドというおばさんが出てくる。それでマシュウ・カスバートが正装して馬車で駅までアンを迎えに行くのを見かけて居ても立ってももいられなくなりマリラに聞きに行く「まったく午後が台無しだわ」とか言いながら。

日本は島国なのでみんなで噂して不穏分子を事前にマークする文化なのだろうか。島国というのは自分たちの価値観と異なる人がいても出て行くところがないからみんなで気にしておきましょうなのだろう。今ではもちろんそんな必要はなくなった。だがDNAに刻まれた詮索好きの遺伝子はそう簡単にはなくならないのだろう。そうそうプリンスエドワード島も島だね。

私個人としては今は独立してそういう無駄なオツキアイはなくなり、仕事も自分のやりたいようにできるので毎日がとても楽しい。

さて、月に戻ろう。月は闇を照らす希望であると同時に秘密を暴く密偵なのだ。何が言いたいかというと「ひとすじ縄ではいかないところが月の魅力」と言うことだ。だから月を絵に描くとき猫はいっしょに描くが犬を描くことはまずない。飼い主に尻尾を振りまくってご機嫌をとる犬と月は合わないのだ。魅力的だが簡単に裏切り何を考えているかわからない猫といっしょに描くのだ。

月は地球に対していつも同じ面を向けている。つまり地球から見えない月の裏側は地球でいくら待っても月は見せてくれない。これは月が地球規模の小さな惑星に対して大きすぎるので質量分布と重力の兼ね合いでそうなっているのだが、こういうところも太古の昔から月の不可思議な性格を形成していた。月が常に同じ向きでこちらを向いているから月は平面的に見え「お盆のような月」に見え、つまり誰かが丸い大きな紙に書いた嘘っぽい月を空の上に置いてあるように感じさせ、ひいては地球も平らで星々は宙(そら)に置かれたオブジェというような感覚主義の人たちが出てくるのだろう。

さて、ここからが大切なのだが、月の秘密を暴く性格付けというのは上に揚げた詮索好きはさておき、詮索することもされることも嫌いな私たちのような人たちにとっていったい何なのだろうか。詮索好きの人たちは月のことなど知らないし気にもしていない。人の噂話が好きな人は月の噂話に興味はないのである。仮に昼食を食べに行ったときツマラナイ噂話にうんざりして「今日は月はどのくらいかな」などと言ってもキョトンとするだけだ。実際に試してみたけど本当にキョトンだった。では月好きの人たちにとって月の先に揚げた性格というのはどのように捉えるべきなのだろうか。私はこう思っている。詮索好きのツマラナイ人たちに気分を害されるのではなく「月のせい」にして「まったく困ったものだ月には、それでも月が好きなんだ」というそういう役回りなのだと。人は生きている限り詮索される。それを「月」のせいにしてだから仕方ないよね、と。

さて最後に庚申の日について。庚申の日とは人の中に居る虫(しょうけら)が9匹いて(実際の虫ではなく概念としての虫ね)親分3匹にそれぞれ子分が2匹居て全部で9匹、これが2ヶ月に一度、あなたが寝ている間に宙に上がって神様だか何だかにあなたの所業を告げ口するという民間信仰。だからその日は徹夜して虫が宙に上がるのを防ぎましょうというということになる。これなんて先の月の話によく似ているが、庚申は月とは直接関係ない。だが松岡さんの「ルナティック」では庚申の日も「月」とうまく絡めて語られている。松岡さんはこういう文脈づくりのテクニックが最高にウマいのである。

今の月、西の空に沈む前

オリンパスのマイクロフォーサーズの300ミリレンスはフルサイズ換算600ミリでこれにテレコンバージョンレンズを付けると1200ミリになる。オリンパスは手ぶれ補正が秀逸でこの1200ミリ相当のレンズを手持ちで撮影できる。こんなカメラは他にはない。上の月は撮影条件があまり良くなく電線も邪魔だが手持ち15分の1秒である。1200ミリの超望遠を手持ちで撮影できるのである。

以前撮影した月食でもこのレンズが大活躍した。マイクロフォーサイズはセンサーサイズが小さいのでスペックオタクの人には人気がないが月を撮るなら最高のカメラである。