有名な嘘つきのパラドックスである。
これは説明は不要なくらい有名だが真偽の判定が不可能な例題として扱われている。
同じく「誤った2分法」というのがある。これは白でないなら黒だという誤った選択法のことだ。
わかりやすい例を挙げると「賛成でないなら反対ということだな」と言うもの。
賛成でも反対でもない場合が往々にしてあるが、誤った2分法では上記のようにそのような選択肢を与えない。
さらに数学的になるとゲーデルの不完全性定理というものがある。自己言及のパラドックスの数学版だ。
こうした理論を少しでも知ると、バカ言ってんじゃないよ、と思えることが世の中に数多く存在することがわかる。
例えば「A案かB案か、または他に何かありますか?」と言った問いかけは実に多い。
小学校の学級会から会社の会議でも、これのオンパレードだ。
これが非常に危険なのは、その場で皆が膝を打つような「他の何か」が出てこないならA案かB案のどちらかを選ぶことを強制しながら、表向きは合意して決定したことになるからだ。
そもそもすぐに別の良い案など出るわけがない。「えーと1週間ほど時間もらえますか?」などとは誰も言えない。言いにくい。なぜなら1週間後に皆が納得するような画期的な良い案を私が考えてくる、と宣言するように聞こえるからだ。
だからA案かB案に決まる。
他の選択肢の存在を証明できないならA案又はB案を選択すると言い換えても良い。
だが「証明できない」ということは、本来あるかもしれないしないかもしれないということで、決して「ない」と同義ではない。
さらにA案かB案のどちらが「やりがいがあるか」とか「おもしろいか」などとバリエーション展開することもある。
こうなるとさらにタチが悪い。なぜなら暗黙のうちににA案かB案のどちらかに見かけ上、賛同以上の好意を表明したような形で帰結されるからだ。
先のクレタ人の話にしても、実はこれはパラドックスなどにはなっていないのは周知の通り。
そもそも「全て嘘」というのは実は「全て真実」と意味的には同等で、間違いが許されないこういったシステムは実現不可能なのだ。
無理に作るとHAL9000のような運命が待っている。
だから達成不可能な前提条件を絶対条件にした理論など語るも無駄ということなのだ。
回答は往々にして「あやふや」でファジーでフラジャイルなものなのだ。だから意味があるとも言える。
そして、この「あやふや」や「証明できない別の選択肢」の中に本来選択すべき、が存在することが実に多いのである。
ところでHAL9000だが、難解と言われるあの映画だがアーサーCクラークは本作の前に「歩哨」という短編でそのアウトラインをすでに発表してあった。
もうすっかり内容は忘れてしまったが、その時感じたのは、2001は小説の最後の方の比喩的な表現とかキューブリックの映像で、何か哲学的な何かを表現した、みたいな話に勝手に盛り上がってしまったけど、まあそれで儲かるならそれでもいいや、だったのだろうが、そんなのではなさそうだ、ということだった。
この小説は小難しくなく、単なるファンタジーで、キューブリックもそのファンタジーの映像化そのものであり、哲学的な含みなど全く無いな、と。
人は死んだら星になる、というファンタジーをそれっぽく冒険SFの収束しないストーリーの結末にポンと付け加えた、と言うか置き換えただけだ。それがスターチャイルドで、その視点からは全てがファンタジーで地球での核戦争の閃光も花火のようでキレイなのだ。つまりそんなことどうでもいいのだ。星になり星の世界に価値観がシフトしておしまい。だから完全無欠のコンピュータもその暴走も、もうどうでもいいや、と放り投げた、というより考えるのやめた。というお話し。
ところが映画化であれだけ評判になると、あーだこーだが始まり、ああなってしまった。
私も高校生の時最初に映画館で観た時は、うーん?となったのを覚えている。
誰も「違いますよー、意味なんて考えるだけ時間の無駄ですよー」とは教えてくれなかった。数多い書評や映画評論も。
皆こぞって難解な映画にそれらしい妙な散文的なものばかりで、そしてそれらは皆、作品を無条件に礼賛するものばかりだった。
まあ面白い小説だし映画だったからね。
だがその後続編2010が出た時は笑うしかなかった。原作は読む気にもならなかったが映画は観た。2001から9年経ったはずなのに時代は80年代に戻っていて、しかもどうでもよかったHAL9000の故障の原因が映画のテーマになっていた。その原因も何かこう後付けで幼稚、高校生のSF研究会が放課後みんなで話し合って決めたようなものだった。
あー、「2001」に真面目に付き合わなくてよかった〜と思った。




















