模型製作の仕事は、試作模型ができあがったのでクライアントのオフィスへ持って行き、確認の打合せ。軽いが大きくてかさばるので地下鉄で運ぶので打合せは朝夕の通勤時間を避け、昼すぎにしてもらった。模型は好評でおそらくそのまま仕様は変えずに本製作になる見込み。さてどうやって作るか・・・
その翌日、新規の仕事の相談で遊園地に下見に行く。夏休み前の平日の遊園地は外国人が圧倒的に多い。気温は一昨日より若干下がったとは言えかなり蒸し暑い。帰宅して熱いシャワーを浴びて、少し横になって休む。バテたので。
以降、今日まで缶詰になって仕事をしている。ただし昨日と今日は少し涼しかったので工房にエアコンを取り付けた。一体型の安いエアコンである。本体が確か5万円くらいだった。取付工事は自分でするのでかかった費用は本体購入費用だけである。
冷房機を付けた壁は工房改修時に設置した壁で以前勝手口があった。冷房をつけるときは玄関から出て外を回って勝手口を開け、廃熱を逃がしてやる必要がある。少々面倒だが冷房のない工房で夏場は作業できないので、それに比べれば勝手口を開けに行くくらいどうということはない。そのうち冷房機の排熱口部分だけ扉をカットしてわざわざ開けなくてもよくしたいが、それはまあそのうち。この冷房機の右側の壁には棚板を付けようと思っている。物が入りきらないからである。ただしそれも少し先でいいだろう。
さて、今日は少しデザインのことを書こうと思う。今どきデザインとは見た目をカッコよくすることである、などと思っている人はまずいないだろう。だが実際には、たいした機能があるわけではない外観を渋くシンプルにしただけのつまらないオーブントースターがデザインの良いオーブントースターなどと言われており、デザインという言葉の本質的な意味と慣用的な意味の間には未だ大きな隔りがある。特に日本や東南アジアではその傾向が顕著であり、そのため最終的にデザインに費用をかけることを無駄とまでは言わないまでも贅沢あるいは余裕があればすることとの意識が根強い。
本来、製品において安全性や利便性、経済性などに直接大きく影響のある「デザイン」という要素が、「無くてなならないもの」ではなく「贅沢なオマケ」となり、ヘタをすると「タダでやってくれるなら・・・」と、見た目をよくするためのお化粧と同じ扱いになっているのである。
ではせめて「見た目」だけでも独自の魅力を追求しているか、と問えば、それすらも悲しいかな、目を背けたくなるものが多い。例えば自動車のデザイン、利益が1兆円を超える日本を代表する自動車メーカーが製造するタクシー、そう、最近よく見かけるジャパンタクシーなど、明らかにロンドンタクシーの程度の低いコピー商品でしかない。オリジナルとの比較は大安吉日に明治神宮へ行くと見ることができる。明治記念館という結婚式場で式を挙げるカップルとその親族は明治神宮に参拝する際、その移動にロンドンタクシー2台とジャパンタクシー数台を使っているので両者が並んでいるところを見ることができるのである。見た目をまねした程度の低いコピー商品なんて日本は何年も前に卒業したと思ってはいけない、今でもまだ続いているのである。
この会社、みっともないド派手なラジエターグリルをつけたミニバンも作っている。現在の技術では乗用車のラジエターグリルは不要か、またはあってもかなり小さくても十分である。おそらくミニバンという外観上差別化の難しい、つまりどう工夫してもつまらないものにしかならない車になんとか差別化するため、ガバッと目立つ物を付けたのだろう。そういうメソッドは私はデザインとは呼びたくない。ただしこうしたデザインの不毛は、単にこのメーカーにその責があるとは言えない。大衆のニーズがそこにあるからというのが大きい。あのチャンピオンベルトのようなラジエターグリルのみっともないミニバンは結構人気があるらしい。
そもそもミニバンとは一体何だろうか。家に旦那と奥さん、子供3人、じいちゃんばあちゃんがいて週末はみんなで仲良く車で出かけるのだろうか。それなら仕方がない、乗車定員の関係でミニバン以外に選択肢はないからである。だが夫婦と子供2人だけならミニバンなんて必要ない。いざというときたくさん乗れた方がいい、とか家が狭いのでせめて車は広々と・・・ということだろうか。なんて情けないみみっちい発想だろう。
そんなこと個人の勝手だ、と鼻息の荒いアホも出てきそうだが、それならこう言いたい、あなたがミニバンを選ぶのはあなたの勝手だろうし、それをどう思おうとそれは私の勝手だ、と。
ウチは以前ニュービートルに乗っていた。家族は4人である。だから4人定員の車で十分だった。後ろの座席は狭かったがみんなでワイワイ楽しくドライブしたものだ。車なんてそんなのがいいのだ。ミニバンが必要になるような事態、つまり6人も7人もなんてことは年に1度もなかった。そんなときはレンタカーでも借りればいい。みみっちい発想でミニバンなんて買うことはないのだ。
映画ローマの休日でグレゴリーペックが相棒の写真家の車から降りるシーン。先に降りたヘップバーンが笑いながら見てる。これ車がすごく小さい、でも実に楽しそうに見える。これでいいのだ、車なんて。
これはカメラにしてもパソコンにしても同じだ。以前働いていた会社で同僚から、Macを買いたいのだけどどれがいいですか、と聞かれた。何をするか決まってるのか聞くと、これからいろいろやってみたい、とのことだった。彼は28万円のMacブックをこれが候補、と言っていた。そうね、私のアドバイスは一番安い10万円のMacBook Airかな。これだと例えばビデオ編集なんかを本格的にやろうと思ったらちょっと辛いし、モニターがモニターだから写真編集もね、でもできないわけではない。だからいろいろこれでやってみると1年くらいでかなり不満が出てきて、そしたらその時ステップアップした方がいい、と答えた。当時はMacはほぼ毎年モデルチェンジしていたので1年か2年経つと今のフラッグシップと同じくらいの性能がエントリークラスで出てくるし、それに用途によってはデスクトップの方がよい場合もある、と説明した。彼は結局28万円のを買った。1年後、調子はどう?と聞くと、ネット見るくらいしか使っていないと言っていた。彼には申し訳ないがこういうのを「みみっちい発想」と呼ぶのだ。
カメラも全く同様で、初めからフルサイズなんてバカみたいと思うのだ。この「コレ買っておけば間違いない」という発想がみみっちいのである。お金をケチるからとか貧乏だから、みみっちいのではないのである。カメラなら安いの買って余ったお金を撮影に費用をかける方が10倍いいし100倍楽しい。
コレも趣味なのだから個人の自由で、撮る楽しみもあるし持つ楽しみもあり人それぞれだという間抜けもいるだろう。そうだその通りだ。私はダメだなんて言っていない。私の目から見ると間抜けでみみっちいと言っているだけである。筒井康隆の小説に「農協月へ行く」というのがある。あの小説、冒頭に金蔵という農家が出てくる。駅前の畑が不動産屋に数億で売れて高級品に囲まれて生活している。持つ楽しみというのが金蔵のアイデンティティーである。もちろん金蔵が高級家具を買うのも金蔵の自由である。趣味なんだから。筒井康隆が金蔵と農協を笑い飛ばすように、私も声高に「趣味なんだから個人の自由」なんて言ってる間抜けを笑い飛ばすのである。
デザインとは物の本質であり、選ぶ人のライフスタイルや思想に大きく影響され同時に影響を与える。だからこれ買っとけば間違いない、みたいな発想で選んでいると生活の本質までもがミニバンになってしまうのである。
ちなみに、決して何でもかんでも安い物を買っておけばイイなどと言っているわけではない。工具や事務用品などは決して100均などで揃えず、初めからある程度良い物を買っておいたほうが良い場合が多い。この違いは説明するまでもないだろう。



