2026年3月26日木曜日

信用できない脳の働き

 3月末になり今年度の仕事もほとんど片付き、今や黒板には5件のみとなっている。

仕事の進捗管理の黒板

しかも全てが待ちの状態なので、つまり今日現在仕事がないのである。自営業としては本来ヒマほど恐ろしいものはないのであるが、今まで忙しすぎたのと年度末のこの時期は元々仕事が少ない時期なので、恐ろしい、といった感じはなく、今までできなかったことを順に片付けていこうと楽観的になっている。それでも正直に言うと心の隅に「このまま仕事が無くなったら・・」と少しチクチクするものを感じなくも無いのだがそれはまあ仕方がない。

さて、今までできなかったことを始める前に、今月いっぱいはのんびりすることにした。何もしないで映画を観たり音楽を聴いたり家族と散歩に出たり、と。旅行に出かけるという選択肢もあるが年度末なので事務手続きの対応を早急にする必要が出てくる可能性も高いのと、去年の11月に旅行に出かけて旅行積立金が底をついているのでなしだ。なのでひたすらのんびりである。

と言うわけで今日は日頃考えていることを少しだけ書いてみようと思う。それは「自身の脳は信用できない」ということで、正確に言うと「完全に信用してはいけない」ということだ。

今日は脳の働きについて考えている。

生物としての人は生存のため次のように考える傾向がある。

1. 複雑に見える事物はシンプルな要素の集合でできている、だからそれぞれの要素にしっかり取り組めば決して困難ではなく、正しい選択、正しい理解、正しい回答にむすびつく。また1つの物でも特長や性質などを単純化し、その集合体としてとらえることで理解を深めることができる。

こういう独立した要素の複合で形成する考えを近代的手法というが、つまり近代になってから導入された手法で、技術の大幅な進歩の元となった考え方である。


2. 人は経験と思考によって、正しい判断をすることができ、またそれでも間違った判断や解釈をしてしまった時も方向修正することができ、そしてそれも経験として自己の中に蓄積される。

1、2とも一見もっともなようだが、これが大間違いなのである。いやこれも正確には、必ずしもそうとは限らないことがある、と言った方がよいだろう。

1つめの単純化、たしかにどんなに複雑な機械も単機能の部品の集合でできていて、これを理解しようとしたら各要素に分解し、それぞれがどのように働き、そして全体が作り上げられているかを理解することができるし、作るときだって同じだ。それは間違いない。だがその理屈を本来それが当てはまらないような事象にも強引に結びつける傾向があるのが問題なのである。当てはまらない事象は非常に多い。そしてこのブログでも以前書いたが脳は複雑な物事を複雑なまま理解しようとはしないで、極力単純にしようとする。従って脳はささやく「単純化こそが真実への道だよ」と。そして脳はそれを常に全てのケースに当てはめ何でも単純化するようになるのである。

2つ目の判断や理解についてはもう少したちが悪い。分かりやすい例で言うと必要な正しい情報をインプットされれば正しい判断ができる、そしてそれが万一間違っていたときもすぐに方向修正できる、と本気で信じることである。これの問題点は後述するが、こうして文章化するとなんとなくダメそうな気がすると思わないだろうか。

さて、この2つを組み合わせると、正しい情報がインプットされ、それを単純化し演算し、自身のデータベースと照合し、その結果を何らかの形で正しいものとしてアウトプットする。という「理想図式」ができあがる。

1つめの単純化の問題点は前述のように、単純化することで変わってしまうものやそもそも単純化などできないものも世の中には数多く存在するがこれらをどう扱うかはあまりきちんと議論されないということ。

2つめの問題点は始めに与えられる情報は「確実に正しい物がヒエラルキー順に並んでやってくるわけでは無い」そしてそもそも「正しいかどうかの判断」も「ヒエラルキーに沿った並べ替え」もほとんど不可能なことが多々あるということ、また、演算装置つまり脳も多くの誤差を含んでいる。そしてさらにやっかいなのが「脳は一度下した判断をなかなか変えようとしない」ということだ。この判断を変えないという性格は脳の身勝手な性格を最も明確に表すものと言える。つまり「そうじゃないかと思っていた」とか自身では「一貫して変わっていないつもりでも明らかに考えが変わっている」ことがあったり、「判断を間違えたのは私のせいではない」といった風に。これは困ったことに本人は本気でそう思うことが多く、たとえば「本当にはじめからそうだと思っていた」と信じるようになるのである。

この「途中で変わったことにもかかわらず、初めからそうだと思い込む」というのは非常に身勝手なことだが、「そんなこと私は絶対にない」という人ほど怪しい。脳はそのように作用するものなのだ。だからタイトル通り「信用できない」と疑ってかかった方がよいのである。

脳は常に「安定したい」と無意識に思っている。そして「安定した状態」こそが最も大切であり。事実をありのまま受け止めてストレスを感じるより、なんとか「安定」した状態にしようとあの手この手なのである。したがって往々にして事実より「こうだったらより安定する」というものを事実に置換え「採用」する。結果、「はじめからそうだと思っていた」というふうになるのである。

これは他人を批判しているのではなく、私自身が陥ってしまう可能性が高く、だから常にその可能性を警戒しながら何事も考えることが重要だと言っているのである。このブログは全ての記事を上から目線で偉そうに書くために始めたものではない。自身で何十回もいやもっと多く読み返すという目的ために始めた部分が大きい。つまり自分に対して「お前はどうなのか」というブログなのである。一時期写真教室みたいなのも書いてみたが、基本は自身の読み返しのためなのである。だがコソコソと書くのもイヤなので公開はしているが閲覧数やいいねとは無関係なのである。

ある時点で「こうだ」と思ったことを、のちに言い訳できないようにストレートに言語化し、それがその後「ブレないもの」と、「これは違ったなというもの」、を自身ではっきり評価する、評価できることに最も意義があると考えている。

つまり、考えを言語化する過程でイメージのみだったことも明確に文章にでき、しかもそれをしっかり残すことができる、ということが最も大切なことなのである。

そうして作成した文章は「オーディエンス受け」を狙った当たり障りのない文章とはならないのである。そして後に違ったと判明したときは、何をミスしたのか、自分のどういうところがミスを招いたのかを考えることが辛くもあるが楽しみでもあるのだ。

この自身を客体化しながら眺める、というのは私にとって最も重要なポリシーのひとつなのである。