仕事は忙しいが散歩は好きなのでまだまだ暑い日が続くが打合せなど出かけたときは少しだけ散歩するよう心がけている。
![]() |
| 打合せの時撮った写真、隅田川 |
特にウチの近くには海や川や森はないので、そういうのが見られる場所の時は少し早めに家を出て散歩するのが楽しい。
さて、先日運転免許の更新に東陽町まで行ってきた。普通であれば無事故無違反なら最寄りのウチだったら歩いてすぐの新宿警察署か都庁である。だが前回うっかり失効してしまい、おかげで保険料率は高いわ、更新にわざわざ東陽町まで行かねばならないわ、で踏んだり蹴ったりなのである。失効はもちろん私が悪いのだが、更新のお知らせハガキが届かなかったのも不運だった。どうして届かなかったのかはわからない。届いたが毎日大量に投げ込まれるピザ屋のチラシなどと一緒に誤って捨ててしまったのかもしれない。
また今でも覚えているが免許証に平成34年の誕生日まで、なんて書いてあったこと。私は天皇制に賛成でも反対でもないがこの平成だの令和だのにはことごとく不満なのである。「年」というのは大きく2つの用い方をする。1つはいつなのかという表記である。申込書の今日の日付を書いたり、生年月日を記入するような時。そしてもう一つはある年から別のある年まで何年間あったかという期間を計算する際の起点と終点の表記である。そしてこの両方に平成だの令和だのは不便極まりないのである。
例えば前述の平成34年の誕生日である。年号が変わると意味不明になる。もう一つ期間もそうだ。「1960年代後半からの高度成長期」とあれば今から何年前のハナシなのかは小学生でも5秒で計算できる。だが例えば「昭和60年のヒットソング」なんて言われても今から何年前なのか絶対誰も5秒ではわからない。「あっ、それわかるよ昭和は25足すと西暦になるから昭和60年は1985年・・・」なんて言うアホもいるだろう。一旦西暦に変換してどうすんの、と言いたい。
まあいい。そんな訳で、前回泣く泣くブルー免許になったのだが、今回新しく交付された免許証見たら年号のところにカッコで西暦が追加になっていた。見た瞬間「バカタレ、遅い!」と東陽町の4階で小さな声で言ってしまった。
また今回の更新でゴールドに戻るかなと思っていたら、これが違っていた。一旦失効してブルーになると5年間修行が必要で、3年後の更新時ではまだ修行が足りないのである。やれやれである。もう東陽町なんぞに行かなくて済むと思っていたのに〜。帰ってカミさんに話したら、「じゃあ次は品川だっけ、そこにしたら〜」とケラケラ笑っていた。そだね。
さて、今回東陽町で運転免許を更新して普段気づかないことにも気付かされたのがおもしろかった。私が普段コミュニケートする相手は優良企業の技術や営業の人たちで、そういう人達とは会議でもメールでも、ひと言で言うと「効率的で無駄が少ない」つまり「まともな」コミュニケーションが成立する。たまに「うーん」ということも無いわけではないが、そんなときはちょっと困ったなぁとなるのだが、まあその程度だ。
だが実は世の中の平均はもっとドーンと低くて、たとえば交通安全協会だかの教官も受講者も一緒に働くのはありえないなぁと思うのである。これはまあ向こうも私に同じことを感じているだろうから、世の中の平和は維持されると考えよう。教官は毎日毎日同じことをもう何十回も話しているだろうになぜ?。受講者も同じでマークシート式の問題のシートが配布され鉛筆でもボールペンでも何でもいいので設問に丸バツで答えてくださいと言われた。もし何も持っていない人は鉛筆を貸しますよと。まあうっかり筆記具を忘れる人も1人か2人、筆記具なんてぜーんぜん持ってこないマヌケも2、3人はいるのだろうなどと思いながらヒマなのでぼーっと考え事をしていたら、その教官が、では筆記具を何も持っていない人は前に来て鉛筆を受け取ってください、と言ったとき、なんと受講室の半分以上の人が一斉に鉛筆を取りに席を立ったのだ。一瞬呆気に取られたがすぐに思い直した。普段私が打合せをしている人達がむしろ特別で、そういう人たちとだけ仕事ができるということを素直にありがたいと思わなければいけない、と。
それで思い出したことがある。以前会社勤めをしていたとき、東南アジアの国に技術指導ということで出張に行っていた。そこで始めのミーティングで、「今日の午前中は講義をするので全員会議室に集まって下さい」と言ったら、誰ひとりノートもペンも持ってこなかった。「うーん、そこらへんから教えないといけないのね」とまるで小学校の先生である。「今から講義をするけどノートは取らなくて大丈夫なの?」と聞くと、スタッフのひとりが恐る恐る言った「私たちまだノートもらってません」。そこで「ペンは持っているの?」「デスクにあります」「じゃあコピー用紙は?」「コピー機のところにあります」「じゃあそれとペンを持ってきたらメモが取れるね」「そうです」「じゃあ持ってこようか」でやっとみんな準備を始める。ちなみにやりとりは全部英語でお互い言っていることが分からないということはない。
運転免許試験場の風景はその思い出を見事にフラッシュバックさせてくれた。ああ今や日本も半分は発展途上国になったのだね、と。
でもその東南アジアの国のスタッフはみんな素直で、私が「講義のときは必ずノート、なければコピー用紙でもいいけど、かならずメモが取れるようにして集合すること」と伝えたら全員次から必ず紙とペンを持って集合した。今の日本はため口きいて言うこと聞かないのが多そうで、「必要ならそっちで用意したらいい」なて馬鹿が結構多そうである。そういう意味では日本は発展途上国以下かもしれない。
日本は何をまちがえたのか。「ゆとり教育」と「多様性の尊重」だ。これは間違いない。ゆとり教育は単に努力しない「怠け者」を量産化し、多様性は「わがままな馬鹿」を量産化したにすぎない。ゆとり教育も多様性も各教科ごと成績上位10%にのみ通用する手法で、ゆとり教育したかったら成績上位10%に入りなさい、とやるべきだったのだ。
学校教育といえば、もう一つ。以前取引のあったソフトウェア会社のリーダーの人と海外出張のとき食事をしながら話しをした。ちょうどウチの子の小学校受験のあとだったのだが、その人が言うには子供が小学校に入学するとき、近くの公立小学校で説明会があった、その時集まった多くの親の姿を見て、急いで私立の受験に切り替えた、と。その人が言うには「普段見ないけど、この人達はどこから湧いてきたの」と思ったらしい。
日本は今貧富の格差がどんどん進んでいる。同時に能力格差や教養格差も同じように着実に進んでいる。やがてこれが階級格差のようになって犯罪も増えてくるのだろう。階級格差は必ず犯罪を増加させる。なぜなら下の人は自分たちが下なのは搾取や不平等の結果で、社会は自分たちを守ってくれない。社会は上の方の人たちが自分たちに都合が良いようにしているから、と妙な原因説を流布する人たちの言説に簡単に乗っかり「そうだ、そうだ」となるからで、これはどうやっても止められないからだ。
さて、先の東南アジアでの出張の時、休日ヒマだったのでショッピングモールに音楽CDを買いに行った。クラシックは無理っぽいけどジャズならあるだろうと思い、店員に「ジャズはどこですか」と聞いたら親切にこの棚です、と教えてくれた。ずいぶん少なかったが、仕方がない、その中から探そうと思いタイトルを見て驚いた。いわゆるジャズは1枚もなく、ディーンマーチンとかフランクシナトラとかバリーマニロウのCDが並んでいた。仕方なく手ぶらで帰ったが、今思うに日本もこの先どんどんこういう風になっていくのだろう。つまりJ-popやらK-popやらAORみたいなのばかりになり、しかもそれらを配信サービスで聞き流すだけに。そうなるとまともに音楽を聴きたい人も音源を入手するのがどんどん難しくなるのだろう。

