2024年8月26日月曜日

写真の理論について(後編)

前編では当時を思い出しながら写真撮影、私の場合は主に「花」と「女性ポートレイト」だったが、いくつか当時の写真を紹介しつつ同時にいろいろ考えていたことを書いた。

「花」と「女性ポートレイト」での撮影は、花は人格を持ったポートレイトのように撮り、逆に「女性ポートレイト」は人格を消し去り「花」のように撮ることが多かった。これは物を人のように、人を物のように、と取られがちだがそうではない。例えば「花」は物語を意識すると少なからず花と言葉を交わすような感覚が必要で、実際に話しかけたりはしないが、イイ表情を探しながら光をコントロールする作業に注力した。「女性ポートレイト」では表面的な人格の「現れ」を嫌い、それが消え去るまで根気強く待ったりした。一般によくある女性アイドルの写真集なども買ってみて、反面教師としたのを覚えている。たしか今でも図書室にあるはずだ。ただし反面教師として見るつもりだったのが何枚かはむしろ参考になるものもあったりして、それはそれで悩まされた。「これはアリ?」などと問いながら・・・

さて、後編は「オリジナリティと反復」の私の朱書きのテキスト起こし。

なお、テキスト起こしに際し、その内容は変更しないが用語や文章に若干の捕捉と置換えを行った。

オリジナリティと反復


本来写真はインデックス(指標)として、「どこか」で「いつか」おきた現実の事象とつながっていた。

そのままでは「記録」であり、「作品」となりにくい→作品性の付与が必要となった。

「テクストの追加」又は「コラージュ化」(作品に対する撮影者の意思を加える)

疑問-1

撮影される対象の選択、切り抜き(フレーミング)その他撮影要素は芸術作品としての「力」を持ちうるか?

回答-1(yes):

持ちうる場合も当然ある。例えば白川義員の写真など。

誰も行かない、行けないところに行って写真を撮ることによって、その写真には明確な撮影者のメッセージが付加される。

回答-1-1、ほんとうに誰も行けないところに行く。月でも火星でも南極でもヒマラヤでも

回答-1-2、被写体は特別ではないが、それを誰も思いつかないような方法で撮影する。

1-2a:被写体に何かを加える→考えられない組合せなど→被写体と○○のコンビネーション(炎、水、空気、無・・・・)→意味性(美、はかなさ、死、永遠・・・)後述のコラージュとつながるか。

1-2b:被写体の持つ新たな一面をさらけだせる→被写体を切り開く(隠された何かを引き出す)→見えなかった何かを見せる

1-2c:被写体を違うものに見せる(トリック)


回答-2(no):

持ちにくい場合もある。花の写真、ポートレートなど→ではこれらの写真にどうやって制作者(撮影者)の意思を付加するか?

回答-2-1、構成的編集、コラージュ、A+B+Cでで意味性を持たせる。またはA→B→Cでストーリー性を持たせる。→わざとらしい?

回答-2-2、テクストの追加、つまりダイレクトにメッセージを追加、例えば写真にテクストをオーバーラップ、例えば写真にテクストを添える、例えば写真の中にテクストを写し込む、例えばテクストと同等の効果のあるものを写し込む。→芸がないだろうに、でも物語は?

回答-2-3、絵画的手法の導入、絵にしてしまう。例えば絵画的色使いに変えてみる(フィルターワークやソラリゼーションなど)→安直?、例えば絵画的構成で被写体を構築する(絵画的構成、イコノロジーの分析、テーマは歴史的テーマ、オーナメントスタイル)→うーん、しかしここかな。これを基本に他をちりばめるか?


以上である。

まあ若かったというのもあるが、理論的詰めの甘い部分もあるが、実際の撮影とリンクしていたのがわかる。ただし撮影の時はこのメモを見ながらなんてことはせず、割と自由に遊んでいた。つまり理論をそのまま実践しようとは全く思っていなかった。だから実際の写真は時間が時々逆戻りしている。

このような理論と実践において、理論が先行しそれを忠実に実践してもまずうまくいかない。実践が先行してこれに理論をかぶせようとするのもダメである。

理論は理論で徹底的に考え、実践は理論をある程度忘れて望むのがよい。ただし徹底的に考えた理論であれば、それは少なからず実践に影響を及ぼす。ここが大切だ。理屈づけに奔走するのではなく自然に理論の一部が取り込まれる状態にしておくことだ。だから理論の部分は常に考え続け、そして時々これを書き留める。書き留めることで例えば漠然としたイメージを言語化することになる。これらが実践のときに良い感じで発動しアクションに結びつくのである。「理論なんて無駄」というわけでは断じてない。

よく学校で習った微分や積分なんて将来何の役にも立たない、なんてことを言う間抜けがいるが、そうではない。微分的または積分的ロジックが少なからず役に立つのである。例えば微分的に傾向を把握し積分的に予測するとか。それと同じである。

ついでに書くとテスト前の丸暗記でなく、このように学習した場合、その後の人生においても今回書いたような「理論と実践」的な活動においてかなり役に立つ。

さらに言えば、こういう経験を重ねることで、学ぶこと、そして考えることが衣食住と同じくらい生活の基本であると感じるようになるのである。私はそう信じている。

さて、写真に戻ろう。このように理論と実践を交互に写真を撮ってきたのだが、撮影は苦悩の連続でもあった。だが同時に楽しかった。

書斎には当時撮影した女性ポートレートの額装や絵はがきサイズにプリントした写真が飾ってある。写真は撮ったら撮りっぱなしというのは最悪だと思っている。ハードディスクにタイトルと日付で整理してその中に入れておしまい。これでは何にもならない。数枚選んでインスタやFBというのは少しはマシかな。だがそれも不十分だ。もったいないからである。

自身で撮影した写真を自身でじっくり眺めることが、ステップアップのために重要なので次につなげるためにも、ここはテキトーはダメである。

デスク脇の絵はがきサイズプリント


私がプリントにこだわるのはコレが理由のひとつだ。プリントして額装し貼ってあれば何千回何万回と眺めることになる。たとえばクローゼットの近くにある写真は服を着替えるたびに眺めることになるし、仕事机のヨコの写真はもっと眺める頻度が高い。私のようにポートレイトを飾れば、女性アイドルの写真みたいなのはまず飾らないだろう。ツマラナイから。では何ならオモシロイのか?それを考える。この考えるキッカケ、「思考の信管」が全ての創造の源であり、写真においては直接的に最も効果的に体現できるのであるから、それをしないという手はないのである。

以前、小学生だったかな、家に本の少ない子供は学校の成績が悪い、と書いた。これは批判もあろうが事実(アメリカでの調査結果)である。

これは本を読まないようなバカな親の子供は遺伝的に親に似てバカが多い、なんてことでは全くなくて、本というのが人間を知的探求へ誘導するメタファとして1439年以降現在に至るまで機能しているからであり、空間に本があることで、「思考の信管(トリガー)」が作動し知への探求へ促されるからである。本にはその佇まいだけでもそんなチカラとミリョクがあるのだ。だがそこに本棚がなければこうした意識の発動が起きず、つまり何も始まらないか、または始まりにくいのである。知への探究心を欠いた子供の成績が良くなるわけはないのである。

写真も飾ることでその写真が「思考の信管」となるのである。

アイドル写真のような「ポートレート」や植物図鑑にありそうな「花の写真」、信用金庫のカレンダーのような「風景写真」・・・・

そうではない何かがほしくなるための「思考の信管」である。