なので何かを新しく作るのはすべて延期、せめておいしいものをゆっくり食べたい。と料理には時間をかけている。ふと思った。忙しくなると料理にかける時間が長くなる傾向があるかも、と。
考えてみれば、仕事が忙しいと言っても、私の場合、疲れるのは脳と目だけだから、疲れて何かができない、ということはない。時間が十分とれないだけだ。
重いものを持つとか、長い距離を歩くとか、立ちっぱなしとか、劣悪な環境に長く留まるとか、そういうのは全くないのだから、少なくとも肉体的には疲れようがない。
もし日頃から料理を面倒だと思えば「疲れたからやーめた」となるだろうが、好きなら「よっし、料理ができる!」となる。
料理する間もないほど忙しければ別だが、そんなことにはまずならない。
さて、時間をかけて料理するとなると、今までで一番おいしい「炒飯」に挑戦、とか、アスターに負けない「海鮮焼きそば」に挑戦などとやりたくなる。これらはすでに何度か挑戦しているが、まだ両方とも達成はしていないが。
現在、炒飯は90点くらい、海鮮焼きそばはまだ70点くらいかね。自分への採点は厳し目にする。
また素材にこだわったうまい「そうめん」なんてのもアリだ。鰹節を削ってつゆを作り、デパ地下で素材を買ってきて天ぷらを揚げ、上等なそうめんを使う。上等と言っても大したことはない。300円のものを1000円にする程度の話だ。これは簡単なので今日やってみた。鼻に抜ける風味が全然違って、家族みんなで「なーるほどー」となった。
おいしくて楽しい。
もちろん始めて挑戦することは失敗もある。料理でも何でも始めからうまくいくことなんてほとんどない。
だが改良を重ね何度も挫けずに続けたらそのうち何とかなる。
これは料理に限った話ではない。絵でも写真でも同じ。
そうね、例えば写真、まだ100回も撮っていないのに、なかなかうまくいかない、などと言う。
そしてだんだん撮らなくなる。カメラも持ち歩かなくなる。
これでは絶対上達しない。よくあるハナシだ。
では、何が人を諦めさせ、何が人を続けさせるのだろうか。
誰かに褒められたとか貶された、とかそういうことではなく、どういう心の状態が人の行動にどのように働きかけるのか、ということ。
以前、家に本が少ないと知への欲求が発動しない可能性を書いたが、それと同じように、どういう環境、習慣、状況が諦めさせてしまうのか。実に興味深いテーマと言える。
決して忙しいからなんてことではない。それは便利な言い訳に過ぎない。そうではなく、何が生物としての人にそうさせるのか。そうさせないのか。
最近感じることは種としての人類は飽和状態から緩やかに絶滅に向かおうとしているからではないかと思えるようになった。
以下は極論だが、あながち理論の飛躍とも言い切れないと思っている。
先日、久しぶりに高円寺を散歩した。昭和の頃は学生の街だった。田舎から出てきた学生が貧乏しながら頑張って生活していた街、そういう所。
今でもある程度はそうだと言える。肉屋の客は近所のおばちゃんより若い学生の方が多い。
お金がないから自炊しているのだろう。みんなとてもいい顔をしている。
いいな、と思う。
その少し前、南阿佐ヶ谷から散歩で青梅街道を高円寺に向け歩いているとデモ行進と出くわした。高円寺の再開発反対と叫んでいる。
彼らの言い分は、「フツーの街になった高円寺なんてつまらない。昼間から路上で酒を飲んでいても誰も咎めたりしないのが高円寺の魅力」だそうだ。
まあ、何を声高に主張するのも自由だが、私の中の高円寺は、酒や服にかけるお金があったら本が欲しい、道具が欲しい、自分のやりたいことを実現するために頑張っている肉屋さんに並ぶ若者達の街で、デモ行進の人はそれとは違うように見えた。
不思議なことに昭和時代なんて知りもしないウチの娘が、あのデモ行進少し違う気がする、なんだかわからないけど違和感がある、とぽつりと言った。
これには正直少し驚いた。
そこで肉屋の前の若者の、あれが高円寺だとお父さんは思うよ。と言ったら納得して頷いていた。
人間は知りたい、そして経験したい、そのための努力を惜しまない生き物だった。
それが「楽しませてくれる」、「経験させてくれる」という常に受け身を望むつまらない生き物になりつつあるのではなかろうか。
自分で美味しいもの作るより誰かに美味しいものを食べさせてもらう。
自分で見つけるより誰かに簡単な方法を教えてもらう。
そして、そういうことを考えてしまう自分に嫌悪感を抱くことなく、誰だってそうでしょ、などと迎合してしまう。
これは種としての人類が生きることを諦めたひとつの現れなのではないだろうか。
この文章は他人を非難するために書いているわけではない。自分自身のためだ。
私自身少し油断すると、ついそのように考えてしまうことがあるからだ。
実際、このブログを読む人は自分以外にはほとんどいない。だから誰かにメッセージとして書くのはとうにやめてしまった。
人ごとを気にするヒマがあったら自分のことをしたいからだ。
さて、今日はMR検査のあと少しカメラを持って散歩した。街撮り。
ああ、これって東京っぽいな、という風景を何枚か撮った。DP2merillというカメラはこういうシーンでこちらの要望にしっかり応えてくれる。
Sigma DP2 merrill f/5.6 SS1/500 ISO100 ノートリ
検査が始まると、ギギギギ、ゴゴゴゴ、ビビビビなどいろいろな音が聞こえる。リズムがおもしろいのもある。ギギギゴゴゴゴギギギゴゴゴゴ。ポクポクポクポクビービー。まるで現代音楽、実験音楽の作品を聴いているみたいだ。
こう言っては何だが、リゲティのつまらない作品よりこっちの方がいいかもと思えることもあった。もちろんリゲティのすべてがつまらないわけではない。全体的に割と好きだ。
つまらないというのは、掃除機を持ってきて・・・みたいなのだ。それよりMRの方がクリエイティブな感じがする。
そんなことを考えていたら、あっという間に終わってしまった。
私にはあのヘッドフォンのBGMはない方がよかったなぁ、などと考えながら待合いに戻るとカミさんと娘が待っていた。終わったら一緒に散歩をすることにしていたので。
MRIの現代音楽は待合いにいても聞こえるらしい。ふーん。
あと、MRは強力な磁界を発生させて原子を共鳴させるので、金属は持ち込み禁止だ。
これはかなり大切なことなので、検査前に3回念をおされた。
最初、受付で。次に更衣室で、最後に検査前に。
ところが順番を待って中待ちに座って本を読んでいると、おじいさんが私の近くにやってきて「あのーメガネはだいじょうぶでしょうか?」と聞かれた。「メガネはダメなのでロッカーに置いてきた方がいいですよ」というと、ロッカーがうまく鍵がかからないのです」と。
「いっしょに見に行きましょう」といってキーをまわすと普通にかかる。「鍵を奥までさしてまわしてみてください」というと「ありがとうございました」と。丁寧なおじいさんだ。
だが、こういう人も診断に来るわけだから、口頭や文章の説明だけでは危険だろうに。
あと受診前の「問診票」がおもしろかった。
「言葉の意味が理解できないことがある、[はい・ときどき・いいえ]」というのがあり、おかしくて笑いそうになった。「蓮実重彦を読んだときはいつも」と答えたかったがやめておいた。
さて、終わったので、散歩と買い物。
娘は学校の課題の素材写真を撮りながら、私はなんとなく街撮り。めまいでふらふらするので撮影に専念はできないが、まあ付き合いでDP2を持ってきた。カミさんはユニクロに行きたいらしい。
上の写真はその時に撮った写真。
