2024年8月30日金曜日

時短で豚汁を作る

 豚汁を作った。仕事がいそがしく、いよいよ料理にもあまり時間がかけられなくなってきた。豚汁はまじめに、つまり丁寧に作るとそれなりに時間がかかるので、手抜きで30分で作ることにした。

まずはゴボウのささがきから。ウチはカミさんも娘も豚汁は大好きだが、豚汁に入っている豚肉はいつも食べずに残す。なので豚肉は少なめ。でもゴボウは大量に入れる。ゴボウは2本使う。これをささがきにする。ぱっぱとやってもどうしても2本で5分くらいかかる。

ゴボウのささがき


ささがきが終わったら水をはり、しばらくアクを抜く。ただしゴボウのアクは別に身体に悪い物ではないのであまり神経質に30分も漬けておく必要はない、5分で十分。

待っている間に豚バラ肉を鍋で炒める。ウチは肉の量は少なめ。炒めながらこんにゃくと油揚げを切る。

ゴボウとこんにゃくと油揚げ


豚バラ肉がある程度火が通って油が出てきたらこんにゃくを加えて炒める。豚汁で大切なことは豚肉、こんにゃくを炒めること。これをせず茹でては台無しになる。炒めている間に油揚げをお湯でちゃっちゃと洗い軽く油抜きをし、これも鍋に入れて炒める、ただし焦げつかにないよう気をつける。これにゴボウを加えてさらに3分ほど炒める。

豚バラ、こんにゃく、油揚げを炒める

ゴボウが少ししんなりしてきたところで「ほんだし」をパラパラと振りかけさらに炒める。次にやかんで沸かしていたお湯を鍋に加えてフタをし煮る。

フタをして煮る


煮る時間は3分くらいでよい。その前に炒めているので火は通っている。煮ている間に大根を短冊状に切って水にさらしておく。3分もさらせば十分。

だいこん


大根を鍋に入れる、つまり大根だけは炒めない。柔らかくなりすぎると美味くないから

大根も入れる

これで具材は全部入ったので中火であと2分くらい煮る。煮ている間に味噌を用意する。いったん火を消し味噌を溶く。

味噌を溶く

ふたたび火を付け煮立つ直前で火を消して完成。ま、だいたい全部で30分。ただし豚汁で忙しいのは初めの15分で、残りの15分は手を動かす時間は少ない。そこでその15分を使って別の料理を作る。今日は豚肉の生姜焼き。これはカミさんも娘も好きでよく食べる。

熱して油を回したフライパンに豚バラを放り込んで少し炒めてから追いがつおつゆをかける。ザルを重ねた片手鍋に肉を空けて、片手鍋に肉汁を落とす。

肉をざるに空け汁を切る


このとき、肉には火が通っていなくてよい。片手鍋にたまった肉汁をフライパンに戻し、ごま油とザラメと濃い口しょうゆを加え煮詰める。肉を入れたまま煮詰めると肉はどんどん硬くなる。だから汁だけで煮詰める。

肉汁とごま油、ザラメ、しょうゆを煮詰める

これくらいまで煮詰める。そこにザルに空けておいた肉を戻し肉汁を絡めながら炒める。最後に細く千切りにしたショウガを振りかけ混ぜずに火を止め皿に盛る。

細切りのショウガを振りかける


豚肉の生姜焼きは肉汁が出てきたところでそのまま肉汁が蒸発するまで焼くと肉が硬くなり味もしみこみすぎて今ひとつになる。肉汁だけ煮詰めたところに肉を戻すのがポイント。ショウガは煮汁で煮詰めない。最後にパラパラとかける。

今日はこれと先日食べきれずに残ったギョウザをフライパンで焼く。ギョウザは一度に48個つくるので余るので余るときは結構余る。今回は16個余っていた。これをテフロンのフライパンに並べて火にかけ、水をコップに半分入れてフタをし、水分が蒸発してから少しチリチリいうまで焼けば終わり。なので豚汁、生姜焼きと平行して料理できるし火にかけたあとは放っておいてよいので手間はほとんどかからない。

というわけで、豚汁と生姜焼きとギョウザの簡単夕食。かかった時間は全部で30分ちょっとかな。


最近ネットで夫婦共働きで食事の準備、つまり料理も交代にしているが、夫が当番だと下手でまずいのが困る、という記事を読んだ。これに対して作ってくれるだけイイと思いなよ、みたいなリアクションがあったりして、なんかウンザリしてしまった。なんともレベルの低いハナシと感じてウンザリなのである。文句を言う奥さんにウンザリ、料理のできないような夫にもウンザリ、そして作ってくれるだけマシというオーディエンスにウンザリなのである。そもそも料理なんてそんなにむずかしいものではない。何もプロになろうというのはない。家族みんながおいしいねといって食べられる料理を作ればいいのだから。簡単な料理から始めてまずは馬鹿の一つ覚えみたいになってもいいので工夫しながら徐々に良くしていけばよい。例えば肉じゃがとか豚汁なら5回も作ればそこそこ上手くなるだろう。ただしいつも考えながらそして覚えながらそして何より楽しみながら作ることだ。1日働いて疲れているなんて言い訳はしないことだ。立ち仕事で疲れているなら座って料理する方法を真剣に考えればいい。こういう時すぐに「だって・・・だから」などと言う人は何をやってもうまくいかない。料理に限らず、楽しむ方法を考えてコツコツと続けられる人がうまくいくのだ。




2024年8月26日月曜日

写真の理論について(後編)

前編では当時を思い出しながら写真撮影、私の場合は主に「花」と「女性ポートレイト」だったが、いくつか当時の写真を紹介しつつ同時にいろいろ考えていたことを書いた。

「花」と「女性ポートレイト」での撮影は、花は人格を持ったポートレイトのように撮り、逆に「女性ポートレイト」は人格を消し去り「花」のように撮ることが多かった。これは物を人のように、人を物のように、と取られがちだがそうではない。例えば「花」は物語を意識すると少なからず花と言葉を交わすような感覚が必要で、実際に話しかけたりはしないが、イイ表情を探しながら光をコントロールする作業に注力した。「女性ポートレイト」では表面的な人格の「現れ」を嫌い、それが消え去るまで根気強く待ったりした。一般によくある女性アイドルの写真集なども買ってみて、反面教師としたのを覚えている。たしか今でも図書室にあるはずだ。ただし反面教師として見るつもりだったのが何枚かはむしろ参考になるものもあったりして、それはそれで悩まされた。「これはアリ?」などと問いながら・・・

さて、後編は「オリジナリティと反復」の私の朱書きのテキスト起こし。

なお、テキスト起こしに際し、その内容は変更しないが用語や文章に若干の捕捉と置換えを行った。

オリジナリティと反復


本来写真はインデックス(指標)として、「どこか」で「いつか」おきた現実の事象とつながっていた。

そのままでは「記録」であり、「作品」となりにくい→作品性の付与が必要となった。

「テクストの追加」又は「コラージュ化」(作品に対する撮影者の意思を加える)

疑問-1

撮影される対象の選択、切り抜き(フレーミング)その他撮影要素は芸術作品としての「力」を持ちうるか?

回答-1(yes):

持ちうる場合も当然ある。例えば白川義員の写真など。

誰も行かない、行けないところに行って写真を撮ることによって、その写真には明確な撮影者のメッセージが付加される。

回答-1-1、ほんとうに誰も行けないところに行く。月でも火星でも南極でもヒマラヤでも

回答-1-2、被写体は特別ではないが、それを誰も思いつかないような方法で撮影する。

1-2a:被写体に何かを加える→考えられない組合せなど→被写体と○○のコンビネーション(炎、水、空気、無・・・・)→意味性(美、はかなさ、死、永遠・・・)後述のコラージュとつながるか。

1-2b:被写体の持つ新たな一面をさらけだせる→被写体を切り開く(隠された何かを引き出す)→見えなかった何かを見せる

1-2c:被写体を違うものに見せる(トリック)


回答-2(no):

持ちにくい場合もある。花の写真、ポートレートなど→ではこれらの写真にどうやって制作者(撮影者)の意思を付加するか?

回答-2-1、構成的編集、コラージュ、A+B+Cでで意味性を持たせる。またはA→B→Cでストーリー性を持たせる。→わざとらしい?

回答-2-2、テクストの追加、つまりダイレクトにメッセージを追加、例えば写真にテクストをオーバーラップ、例えば写真にテクストを添える、例えば写真の中にテクストを写し込む、例えばテクストと同等の効果のあるものを写し込む。→芸がないだろうに、でも物語は?

回答-2-3、絵画的手法の導入、絵にしてしまう。例えば絵画的色使いに変えてみる(フィルターワークやソラリゼーションなど)→安直?、例えば絵画的構成で被写体を構築する(絵画的構成、イコノロジーの分析、テーマは歴史的テーマ、オーナメントスタイル)→うーん、しかしここかな。これを基本に他をちりばめるか?


以上である。

まあ若かったというのもあるが、理論的詰めの甘い部分もあるが、実際の撮影とリンクしていたのがわかる。ただし撮影の時はこのメモを見ながらなんてことはせず、割と自由に遊んでいた。つまり理論をそのまま実践しようとは全く思っていなかった。だから実際の写真は時間が時々逆戻りしている。

このような理論と実践において、理論が先行しそれを忠実に実践してもまずうまくいかない。実践が先行してこれに理論をかぶせようとするのもダメである。

理論は理論で徹底的に考え、実践は理論をある程度忘れて望むのがよい。ただし徹底的に考えた理論であれば、それは少なからず実践に影響を及ぼす。ここが大切だ。理屈づけに奔走するのではなく自然に理論の一部が取り込まれる状態にしておくことだ。だから理論の部分は常に考え続け、そして時々これを書き留める。書き留めることで例えば漠然としたイメージを言語化することになる。これらが実践のときに良い感じで発動しアクションに結びつくのである。「理論なんて無駄」というわけでは断じてない。

よく学校で習った微分や積分なんて将来何の役にも立たない、なんてことを言う間抜けがいるが、そうではない。微分的または積分的ロジックが少なからず役に立つのである。例えば微分的に傾向を把握し積分的に予測するとか。それと同じである。

ついでに書くとテスト前の丸暗記でなく、このように学習した場合、その後の人生においても今回書いたような「理論と実践」的な活動においてかなり役に立つ。

さらに言えば、こういう経験を重ねることで、学ぶこと、そして考えることが衣食住と同じくらい生活の基本であると感じるようになるのである。私はそう信じている。

さて、写真に戻ろう。このように理論と実践を交互に写真を撮ってきたのだが、撮影は苦悩の連続でもあった。だが同時に楽しかった。

書斎には当時撮影した女性ポートレートの額装や絵はがきサイズにプリントした写真が飾ってある。写真は撮ったら撮りっぱなしというのは最悪だと思っている。ハードディスクにタイトルと日付で整理してその中に入れておしまい。これでは何にもならない。数枚選んでインスタやFBというのは少しはマシかな。だがそれも不十分だ。もったいないからである。

自身で撮影した写真を自身でじっくり眺めることが、ステップアップのために重要なので次につなげるためにも、ここはテキトーはダメである。

デスク脇の絵はがきサイズプリント


私がプリントにこだわるのはコレが理由のひとつだ。プリントして額装し貼ってあれば何千回何万回と眺めることになる。たとえばクローゼットの近くにある写真は服を着替えるたびに眺めることになるし、仕事机のヨコの写真はもっと眺める頻度が高い。私のようにポートレイトを飾れば、女性アイドルの写真みたいなのはまず飾らないだろう。ツマラナイから。では何ならオモシロイのか?それを考える。この考えるキッカケ、「思考の信管」が全ての創造の源であり、写真においては直接的に最も効果的に体現できるのであるから、それをしないという手はないのである。

以前、小学生だったかな、家に本の少ない子供は学校の成績が悪い、と書いた。これは批判もあろうが事実(アメリカでの調査結果)である。

これは本を読まないようなバカな親の子供は遺伝的に親に似てバカが多い、なんてことでは全くなくて、本というのが人間を知的探求へ誘導するメタファとして1439年以降現在に至るまで機能しているからであり、空間に本があることで、「思考の信管(トリガー)」が作動し知への探求へ促されるからである。本にはその佇まいだけでもそんなチカラとミリョクがあるのだ。だがそこに本棚がなければこうした意識の発動が起きず、つまり何も始まらないか、または始まりにくいのである。知への探究心を欠いた子供の成績が良くなるわけはないのである。

写真も飾ることでその写真が「思考の信管」となるのである。

アイドル写真のような「ポートレート」や植物図鑑にありそうな「花の写真」、信用金庫のカレンダーのような「風景写真」・・・・

そうではない何かがほしくなるための「思考の信管」である。




2024年8月25日日曜日

写真の理論について(前編)

 ロザリンド・クラウス著「オリジナリティと反復」に私が朱書きした最後の項目についてテキスト起こしをすることにした。

写真理論についてのメモ(朱書き)


前回、1990年代のおそらく後半のものと書いたが、もっと新しいことがわかった。おそらく本を買ったのは1990年代の遅くまたは2000年代の始めで、そして読み始めたのはしばらく後でおそらく2008年頃であろう。なぜならこの本を読みながら理論と実践を交互に繰り返していたことを思い出したからである。当時どんな写真を撮っていたか当時の「花」と「ポートレート」写真を見返してみた。

当時写真の題材として「花」と「女性ポートレート」を主に撮影していた。被写体に「風景」が含まれていない理由は、照明や演出によって物語性の付加ができないと考えていたからだ。

今日はまず、その頃撮影した花の写真をいくつか紹介する。

「Cala」 Ricoh GR digital f2.4 SS1/100 Jan.2008.


「Cala」 Ricoh GR digital f2.4 SS0.3 Jan.2008.


「Tulip」 Ricoh GR digital f2.4 SS1/400 Jan.2008.




「Tulip」 Ricoh GR digital f7.1 SS1/60 Jan.2008.




Melancholy」 Ricoh GR digital f7.1 SS1/320 Dec.2008.





無題」 Ricoh GR digital f5.6 SS1/30 Dec.2008.



カメラはGR digital、ただし元祖GRである。画素数は600万とあったが1/1.7インチセンサーなので実効解像度は300万〜400万画素といったところだったと記憶している。また、RAWはかろうじて撮影できたが1枚撮影するごとにインターバルで10秒待つ必要があった。今から考えると信じられないような仕様だった。しかしながらレンズ先1.5センチまで寄れる「広角マクロ」という特異な画角が「花」をあたかも人格を持つように撮影するという私のスタイルに合致し、しばらくの間愛用した。

撮影では透過光にこだわった。透過光によって花は言葉を話し始めた。そしてその考えをさらに発展させることができないかを常に考え続けた。

そのひとつの答えが「Brazing Flowers」だった。

Brazing Flowersより」 Olympus E-420+3535Macro f5.0 SS1/6  Apr.2009.






Brazing Flowersより」 Olympus E-420+3535Macro f3.5 SS1.3  Apr.2009.






Brazing Flowersより」 Olympus E-420+3535Macro f4.5 SS1/5  Apr.2009.





Brazing Flowersより」 Olympus E-420+3535Macro f5.6 SS0.5  Apr.2009.



Brazing Flowersは花の儚さと美しさを同時に表すものとして当時夢中になって撮影した。花はしばらく部屋に飾って、捨てる直前に撮影した。それでもネットでは「かわいそう」などと言われたのを思い出す。「だから捨てる前にだってば」と言ってもムダだった。またBrazingFlowerの前、花を毎日枯れ果てるまで撮影し続けることも試した。枯れた花はもの悲しく、そしてBrazing Flowersとは違った美しさを持っていた。

枯れた花」 GR Digital f7.1 SS2.0  Mar.2008.




これも批判があった。わざわざ枯れた花なんて、という批判だ。だがこれはこれで美しいというのがわからないのだろうか、と感じた。ネットの批評とはこの程度と、このとき以来批判は一切無視することにした。だがこの枯れた花は単にドライフラワーであり、批判もとんちんかんだが、表現としても大したことないものだった。

そして、こうした実践と理論を同時に進めることで何か新しい物ができると信じていた。

さて、本題に移る前にもう少し当時の写真を。今度はポートレート。
ポートレートでも花と同じような考え方で撮影を始めた。だが、光は透過しないし見えない人格を引き出すような手法はそのまま使えない。まあ当たり前と言えば当たり前なのだが、そんなことで悩んだあげく普通の芸のないポートレートやphotoshopでのレタッチに新しい表現の活路を模索した。

無題」 GR Digital f2.4 SS0.5  Jul.2008.




こういうのもアリかなと思いながら、同時にどうも違うというのもわかっていた。

花のように炎というわけにはいかないので、かわりにシャボン玉を飛ばしてみたりした。

シャボン玉ポートレート」 Olympus E-420+Sumi25 f1.4 SS1/60  Nov.2011.




とにかくこの当時はいろいろ試した。これはポップアート表現
POP」 Olympus E-420+Sumi25 f1.6 SS1/40  Sep.2009.






Apple」 Olympus E-420+Sumi25 f1.6 SS1/40  Sep.2009.





「」 Olympus E-420+Sumi25 f1.4 SS1/40  May.2009.





「ランタン」 Olympus E-420+Sumi25 f2.8 SS1/80  Jan.2012.





総じて女性ポートレートでは花と違って、自分の撮影スタイルを決めずに何度も行きつ戻りつでトライアルを繰り返した。2008年から2012年頃にかけて約5年間くらいだろうか。そして見えてきたのが「物語」と「磁場」だった。

被写体の本来持つポテンシャルに頼らず、物語とその周辺に発生する磁場を捉えることが、私のポートレート写真のスタイルになった。
また、基本カメラ目線の写真はほとんど撮ることをやめた。これはカメラ目線は視線が勝ってしまってどうしても被写体の周りに磁場が発生しにくいからだった。
上の写真は光そのものを被写体と同格に扱うことで新しい表現となるかもと撮影したのだがカメラ目線でその目論見は薄らいでしまった。こういうことは撮影の時ではなく現像してコーヒーを飲みながら眺めているときに気が付くことが多かった。


「鏡」 Olympus E-420+Sumi25 f2.2 SS1/60  May.2010.






「  」 Olympus E-420+Sumi25 f1.8 SS1/125  Apr.2011.





「  」 Olympus E-420+Sumi25 f2.0 SS1/205  Feb.2011.






「  」 Sigma DP2m f2.8 SS1/13  Nov.2012.






「  」 Sigma DP2m f4.5 SS1/125  Dec.2014.






「  」 Sigma DP2m f2.8 SS1/60  Oct.2014.






「  」 Sigma DP2m f2.8 SS1/13  Apr.2017.




2024年8月14日水曜日

お盆休み、写真表現の探求とアンドレ・ブルトン

 今日は月に一度の通院の日、実は仕事が忙しく伸ばし伸ばしになっていたが、今日も決してヒマというわけではないのだが、お盆でクライアントからはメールも電話もないし盆明けからはまた忙しいだろうから今のうちに行くことにした。毎日ほんとうに暑い。クリニックへ行くときは、待ち時間に本を読むことにしている。今日はロザリンド・クラウス著「オリジナリティと反復」を持って行った。確か1990年代後半に読んだ本である。

オリジナリティと反復



当時、私は写真の芸術性や表現手法について研究していて、この本もその参考として読んだのを覚えている。本にはあちこちに当時の書き込みがある。今日はその書き込みを中心に目を通した。書き込みから当時かなり真剣にそして必死に考えていたことが伺える。自分で言うのも何だが結構イイことも書いてある。少しだけ紹介しよう。

ちなみにこのタイトル「オリジナリティと反復」というのは邦題としてどうなのだろう、原題は「The Originality of the Avant-Garde and other Modernist Myths」である。当時私も不可解に感じ、「前衛や現代美術におけるオリジナリティについて」の方がよい、と朱書きしてある。今ならもう少し気の利いたタイトルを考えるかな。

さて、これは前書きが終わり、第1章の扉に書いてあったメモ。



こう書いてある。
グリッドは近代において象徴と神話的機能を有し、相矛盾するこれらの領域を制御するマザーシステムとして働いた。芸術と精神を統合し、制御することができるものとしてグリッドは長い間モダニズムの構造であった。

モダニズムはキリスト教の神に代わってグリッドやスピードの中に神を見いだした?
現代は神の不在ではなく、神の置換えによって機能している?
意識によって作られるものを排斥し、意識そのものに働きかけることを重視したのも、そうした置換えが行われたから?
以上が右ページのポストイット、続けよう。
構造主義(静的構造)
・研究対象を構成要素に分解し、要素間の関係を整理
 類似する他対象との共通点を探るメタ的アプローチまたは関係
・言語や表現などが形作っている構造に着目
 顕在的な現象と潜在的な既定条件としての関係性を扱う
・要素還元主義を批判、関係論的構造理解を重視
 (1つの要素は他のすべての要素との関係において相互依存的に決定される)

これらとはちがうアプローチ
・元型アプローチ(元型が対象の中でどのように用いられているか)
・機能主義的アプローチ(対象が社会に対してどのような機能を持つか)

ポスト構造主義
・構造そのものが生成され変動するという視点に立つ

まあ、この辺は90年代の流行のさらっとしたまとめ。ちょっとなつかしい。

少しページをすすめて、第1章5節の「シュルレアリスムの写真的条件」の扉


写真が表題もなく1枚存在する場合
 それはインデックスとしての性格を持つ写真としての一面性となる→91ページ
転じて写真がテクスト又は表題の影響を受けて、単に写っているものではなく、
 「写っているもの」+「テクスト」で、例えば「社会的傾向」などが表現されるとき、写真はインデックスではなく、フォトモンタージュ(ひとつの特別な種類の芸術)となる。

うーん、ここは少し読みが浅いというか著者に引っ張られているなぁ。確かにシュルレアリスムは言語表現の芸術だったけどね。ダダも含めてね。
もう少し詳しく書くと、日本ではシュールレアリスムとはシュールなリアリズムとして現実離れした風景をレアリズムつまり写実的に描画する絵画という独自解釈が先行し、ダリのぐにゃりと曲がった時計の絵こそがシュールレアリスムであるとの説が定着した。だが、ブルトンが1924年に出版したシュールレアリスム宣言は全く異なる。ブルトンは文学において、それまで主流であった「その場の空気を表すためだけのだらだらと続く描写」をすべてやめ、それが「登場人物に何らかの決定的意思や経験としてもたらされる事象のみを機械的に綴る」ことを文学として重視した。そしてそのためにはアンシャンレジュームと決別し、自身を受容体として常に高感度に保ち、できごとを思い返したり要約したりまたはそれがどういうことなのかなどと考えるまもなく記述していく、それをシュールレアリスムと呼んだ。

ブルトンの本



「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」と彼の代表作「ナジャ」そして後年出版されたブレッソンの写真集「太陽王アンドレ・ブルトン」この中でおもしろいのは「ナジャ」かな。「太陽王アンドレ・ブルトン」なんてブルトンだし写真はブレッソンだしと期待は高まるかもしれないがはっきり言ってツマラナイ。ブルトンはこのときすでに65歳となかり高齢でほとんど意味不明、ブレッソンの写真もそのほとんどがサエない。この本で最も良い部分はシュルレアリスムは「無意識と偶然の瓦礫のなかを意のままに探求していくことを教えてくれた」という実に洒落た一文だけかもしれない。写真も65歳のブルトンは太陽王と言うよりはむしろ偏屈王で、詭弁踊りでも見せてあげたい。ここはやはり若い頃の写真の方が1万倍イイのである。

アンドレ・ブルトン(ちょっと恣意的すぎるきらいもあるが好きな写真)




マン・レイの写真集にあるブルトン(マン・レイもブルトンも遊んでいる)


さて、「オリジナリティと反復」の朱書きに戻って続けよう。



これは第2章4節の扉に書かれたメモ
ここでは本書にインスパイアされつつも本書を離れて私自身の持論をグリグリ展開している。本書にはこれら以外にもたくさんの朱書きがあるが、なんといってもここが一番おもしろかった。若い私が精一杯努力して、新しい表現をなんとか見つけ出そうともがいていた時期のロジック側の展開である。ちょっと文章起こしに疲れたので、今日は画像の貼り付けに留めるが、ポートレート写真、花の写真と当時の私の理論的側面がここに結実している。
ヒマを見て少しずつ文字起こししていこうと思う。




さて、診察を終えてクリニックの帰りにデパ地下でハムとベーコンを買い、近所のスーパーマーケットでもいろいろ買い物をして帰った。暑い時間はデパ地下もスーパーマーケットも比較的空いているのでよい。
帰宅後みんなで昼食を食べる。
今日もサンドイッチ。ウチは家族全員パンが好きなので米の飯よりパンの方がみんな喜ぶ。もちろん私もパンの方が好きである。ただしスーパーマーケットのパンはほとんど買わない。ごくごくたまにタカキベーカリーというメーカーのパンを買うくらい。打合せなどで出かけるとデパ地下などでパンとハムやベーコンを買って帰る。だからお盆中のように出かけることがないとパンが食べられない。真夏でなかったら散歩がてら買いに行くのも良いが、連日こう暑いと足が遠のく。今日はクリニックの帰りに寄れたので家族みんな幸せである。



デパ地下で買ったクルミパンにレタスとハムをはさんでサンドイッチ。あとコーヒー。ただし今日は暑い中少し歩いて汗もかいたので、キンキンに冷えた炭酸水もうまい。コーヒーを飲んだり炭酸水を飲んだり。
クルミパンにしたのはオーブントースターを使いたくなかったから。ウチは古い家なので、ダイニングキッチンは冷房の効きがすごく悪い。だからなるべく熱源を使いたくなかったので。パン屋で買ってきたクルミパンはトーストしなくても十分美味かった。ま、厳密にはコーヒーを淹れるのに湯を沸かしたけど。最高の昼食のあとは書斎で仕事。だが待てよ、久しぶりに仕事の環境チェックをしておこう。忙しいとは言えお盆休み中なので少しだけ自分自身のための時間を取りたい。だから「まてよー」と考える。

さて、今日は黒板から。
黒板には何も書かれていない。毎月、月初めにi-phoneで写真を撮ってから全部消して掃除をし新たに書き直すことにしているのだが、今月は忙しかったので今日になった。月に一度だけぞうきんで水拭きする。黒板は水拭きすると表面が傷むので水拭きは最低限にするほうがよい。ウチはだいたい月に1度である。

黒板


この黒板はすごく気に入っている。何より好きなのはチョークを当てたときのカチカチという感触である。

次にMacの机。

Macの作業机

朝、薬を飲んだときの水の入ったコップが置いてある。左端には薬も見える。うーん。ちょっと考えよう。

次、サイドデスク。

サイドデスク

毎回サイドデスクにはうんざりさせられる。よし、この盆休み中にここだけは何とか手を打とう。確か前回もここは何とか・・・と言いながら結局何も変わっていない。ダメである。

最後に作業机。


作業机


仕事の途中で試しプリントしたものが置いてある。少し気になる点もあるが、まあここは今回はパス、サイドデスクを重点的に改善しよう。


その後、サイドテーブル回りの改良が終わった。飲み物のピッチャーとグラス、夜中時々チビチビやっているグレンリベットのボトルなどをテーブル下に棚板を付けてそこに移動した。飲みかけの薬や書きかけのメモ用紙は簡単に取り出せるキャビネットの引き出し最上段に。電話機もテーブル下に移動。メモブロックは量を減らしテーブルライトのベースの上に置いた。これでだいぶすっきりした。もちろん仕事の時はここにファイルやらメモ用紙やら色見本帳などが置かれることになるが、それは全く問題ない。

サイドテーブル(改)