B・L・ウォーフ著「言語・思考・現実」を読んでいる。仕事が忙しく、最近の読書は主に出かけたときに電車で、というのが多い。
だがコロナ禍で打合せなど外出の頻度があまりに低く、まったく読み進めることができない。さすがに時間がかかりすぎなので家でも読むことにした。
B・L・ウォーフ著「言語・思考・現実」
記憶にあるのは、学生時代にチャールズ・ジェンクス著、竹山実訳「ポストモダニズムの建築言語」という本を大学のゼミで読んで、教授に「何度読み返しても意味不明の部分がある」と言うと、オリジナルの英語版を読んでごらん、と言われた。
読んでみるとものすごく明快簡単で、どこをどう訳したらこんな意味不明の日本語になるのか、と思ったことがある。
以来、わかりにくい翻訳は原書を読まないまでも、原書の表現を想像しながら読むことにしている。理解が早い、おすすめの方法だ。
チャールズ・ジェンクス著、竹山実訳「ポストモダニズムの建築言語」
ウォーフ著「言語・思考・現実」も同じ、そのままの日本語は意味不明が多い。
さて、この本の論旨は「言語の違いはものの見方や考え方に多大な影響をもたらす」というもので、映画「Arival(邦題はメッセージ)」の着想の原点となった本である。
映画では言語により時間が関知される対象として未来も過去もわかってしまうというぶっとんだ話になっていたが、SF映画なのでそういう「世界定め」と割り切れば全く問題ない。おもしろい映画だし。
映画「Arival(邦題はメッセージ)」のBD
音楽はヨハン・ヨハンソンとマックス・リヒター。
音楽もいい。
この本では認識と情報伝達について書かれたところがとても興味深かったので、今日はそのことを書こうと思う。
本書では「バラの茂みのことを思う時」というなかなかしゃれた例を挙げて説明している。
バラの茂みのことを思う時、人の意識は実際のバラの茂みではなく、代用物として、心の中のにある「バラの茂み」のイメージと情報交換を行う、というのだ。
この話を読んで思い出したのが、編集工学研究所の松岡正剛著「知の編集工学」第3章の編集的コミュニケーションモデルに関する話だ。
松岡正剛が若い、しかしなぜ表紙に顔写真なんて使ったのだろう?これでは怪しいビジネス書か「絶対儲かる△□」「超△□術」みたいだ。朝日文庫の編集者にそそのかされたのかね? でもなかなか良い本だ。編工研-松岡の本ではこの本と「情報の歴史」というのがたいへん良い。もう一つ「全宇宙史」という良書があるのだがなかなか手に入らない。
右がその情報伝達の解説ページ、松岡は「編集」という彼お得意の何にでも使える魔法の単語を使って説明している。
情報伝達理論で最も有名なのがシャノン・ウィーバーのコミュニケーションモデルだろう。
シャノン・ウィーバーのモデルとは、情報は以下の経路を経て伝達される。
1.送信者→2.トランスミッター→3.シグナル→4.レシーバー→5受信者 である。
松岡はこれを、もともと送信者と受信者は等価であり、コミュニケーションは、シャノン・ウィーバーのモデルのように一方からもう一方へ不可逆的に伝達されるのではなく、A送信者兼受信者とB送信者兼受信者が互いのまわりに場を提供し、その場をAとBとで共有する、という。つまりまず共有イメージ空間をつくる。で、そこで相手の繰り出したイメージをきっかけにお互いがイメージを投げ合って、そして両者間で納得のいく共通感覚を得たところでコミュニケーションが成立したとする。というものである。これはもちろん「相手が納得するまで話し合う」という意味ではない。Aさんがこう言いました、Bさんがこう理解しました。というごく単純なコミュニケーションでも起こっている、コミュニケーションの基本を表している。
松岡はベーゴマ遊びに例えている。
ウォーフの考えも同じと言えるだろう。そしてウォーフは投げ合うイメージは言語に大きく左右され、これはコミュニケーションだけでなく、むしろ知覚認識において顕著だと述べている。
つまり何らかの知覚、認識、理解においては言語による持てる情報の質と量が重要ということになる。ベーゴマを持っていないとベーゴマ遊びには参加できないとうことだ。
またウォーフは、非空間的感覚を空間用語を用いて比喩を行う、「共感覚」についても述べている。
例をあげると、「幅広い知識」というときの「知識」というのは「空間」とは全く関係ないものだが、「幅広い」というのは空間を表す用語であり、知識の種類や量を表すのに空間用語を比喩的に用いている。
だが一部の民族の言語ではこのような比喩は用いられない。ウォーフは言語による違いから空間や時間の捉え方や比喩を含めた活用のしかたに大きな違いがでてくる、と述べている。
私が着目した点は、先に述べた情報伝達や認識とこの空間用語を用いた比喩によって、認識や理解、アイデアの創出において何らかのバイアスがかかったり、或いは障害となってくることがあるのではないか、という点だ。
もともと人間の脳は複雑な系をそのままにしておくことを好まず、すべてを単純な系に還元する傾向がある。しかも真偽を見極めることなく。
簡単に言うと「無理矢理でもわかりやすい事象として片付ける」ということだ。
これは人間の生きるための知恵であって、誰しも必ず持っている「能力」である。
人間の知覚や認識の感覚において、空間の把握というのは最もわかりやすいものであり、「大きい・小さい」「広い・狭い」や「深い・浅い」はどんな馬鹿でも考えずとも理解できる。
そこで脳は理解の難しい題材を空間用語を用いて比喩を行い、あたかも理解したかのような錯覚をおこさせ「一件落着」とする。
だが本来もう少し詳しく考察、観測または思考すべき事柄も、往々にして空間用語で比喩することでその手続きを止めてしまうということも起こりうる。そうなると当然十分な理解は得られない。
物事を本質的に理解しない、できない元凶のひとつがここにあるのではないだろうか。
さらにそれだけでなく、その先、つまり発想や創出においても。
例えば「新しいアイデアが出てこない」のはイマジネーションが乏しいからではなく、そもそも事象を言語的に比喩を用いることで不十分に理解することと、加えて、むしろこっちが重要なのだが、アイデアの場をそうであることを意識せず空間用語で充満させ、比喩の沼に飲み込まれてしまっているからではなかろうか、と。
空間用語には、位置関係の他に運動や観測点などもある。さらに空間用語だけではなく、時間用語、音楽用語なども同様に比喩に用いられる。
音楽もいい。
この本では認識と情報伝達について書かれたところがとても興味深かったので、今日はそのことを書こうと思う。
本書では「バラの茂みのことを思う時」というなかなかしゃれた例を挙げて説明している。
バラの茂みのことを思う時、人の意識は実際のバラの茂みではなく、代用物として、心の中のにある「バラの茂み」のイメージと情報交換を行う、というのだ。
この話を読んで思い出したのが、編集工学研究所の松岡正剛著「知の編集工学」第3章の編集的コミュニケーションモデルに関する話だ。
松岡正剛著「知の編集工学」
右がその情報伝達の解説ページ、松岡は「編集」という彼お得意の何にでも使える魔法の単語を使って説明している。
情報伝達理論で最も有名なのがシャノン・ウィーバーのコミュニケーションモデルだろう。
シャノン・ウィーバーのモデルとは、情報は以下の経路を経て伝達される。
1.送信者→2.トランスミッター→3.シグナル→4.レシーバー→5受信者 である。
松岡はこれを、もともと送信者と受信者は等価であり、コミュニケーションは、シャノン・ウィーバーのモデルのように一方からもう一方へ不可逆的に伝達されるのではなく、A送信者兼受信者とB送信者兼受信者が互いのまわりに場を提供し、その場をAとBとで共有する、という。つまりまず共有イメージ空間をつくる。で、そこで相手の繰り出したイメージをきっかけにお互いがイメージを投げ合って、そして両者間で納得のいく共通感覚を得たところでコミュニケーションが成立したとする。というものである。これはもちろん「相手が納得するまで話し合う」という意味ではない。Aさんがこう言いました、Bさんがこう理解しました。というごく単純なコミュニケーションでも起こっている、コミュニケーションの基本を表している。
松岡はベーゴマ遊びに例えている。
ウォーフの考えも同じと言えるだろう。そしてウォーフは投げ合うイメージは言語に大きく左右され、これはコミュニケーションだけでなく、むしろ知覚認識において顕著だと述べている。
つまり何らかの知覚、認識、理解においては言語による持てる情報の質と量が重要ということになる。ベーゴマを持っていないとベーゴマ遊びには参加できないとうことだ。
またウォーフは、非空間的感覚を空間用語を用いて比喩を行う、「共感覚」についても述べている。
例をあげると、「幅広い知識」というときの「知識」というのは「空間」とは全く関係ないものだが、「幅広い」というのは空間を表す用語であり、知識の種類や量を表すのに空間用語を比喩的に用いている。
だが一部の民族の言語ではこのような比喩は用いられない。ウォーフは言語による違いから空間や時間の捉え方や比喩を含めた活用のしかたに大きな違いがでてくる、と述べている。
私が着目した点は、先に述べた情報伝達や認識とこの空間用語を用いた比喩によって、認識や理解、アイデアの創出において何らかのバイアスがかかったり、或いは障害となってくることがあるのではないか、という点だ。
もともと人間の脳は複雑な系をそのままにしておくことを好まず、すべてを単純な系に還元する傾向がある。しかも真偽を見極めることなく。
簡単に言うと「無理矢理でもわかりやすい事象として片付ける」ということだ。
これは人間の生きるための知恵であって、誰しも必ず持っている「能力」である。
人間の知覚や認識の感覚において、空間の把握というのは最もわかりやすいものであり、「大きい・小さい」「広い・狭い」や「深い・浅い」はどんな馬鹿でも考えずとも理解できる。
そこで脳は理解の難しい題材を空間用語を用いて比喩を行い、あたかも理解したかのような錯覚をおこさせ「一件落着」とする。
だが本来もう少し詳しく考察、観測または思考すべき事柄も、往々にして空間用語で比喩することでその手続きを止めてしまうということも起こりうる。そうなると当然十分な理解は得られない。
物事を本質的に理解しない、できない元凶のひとつがここにあるのではないだろうか。
さらにそれだけでなく、その先、つまり発想や創出においても。
例えば「新しいアイデアが出てこない」のはイマジネーションが乏しいからではなく、そもそも事象を言語的に比喩を用いることで不十分に理解することと、加えて、むしろこっちが重要なのだが、アイデアの場をそうであることを意識せず空間用語で充満させ、比喩の沼に飲み込まれてしまっているからではなかろうか、と。
空間用語には、位置関係の他に運動や観測点などもある。さらに空間用語だけではなく、時間用語、音楽用語なども同様に比喩に用いられる。
これらを用いた比喩を観測から取り除くこと、または別の比喩に変えることなどで、理解の袋小路から出られるかもしれないし、創作が行き詰まった時にも同様、解決の糸口が見えてくるかもしれない。
どうだろうか。
ちょっと試してみるのもおもしろそうだ。
どうだろうか。
ちょっと試してみるのもおもしろそうだ。




