2021年8月13日金曜日

脳は何を美しいと思うか


藤田一郎著「脳は何を見ているのか」を読んだ。
脳科学に関する本であり、専門的な内容を一般にも理解できるよう解説してある良書である。


全体は大きく2部からなり、前半はモノを見るということがいったいどういうことなのか、について書かれ、後半は脳の各部で何がどのように働きモノを見ているのかを解説している。

だが、機関としての脳の働きについてはよく書かれているのだが、見たモノが意識に働きかけることについては本書の守備範囲外だった。私が最も興味があるのは、本書の主要なテーマである「脳のどの部位がどのように仕事をしているか」ではなく、視覚情報のイメージ化や言語化であって、例えば魚を見て、それが初めて見る魚であってもその魚が持っている魚らしさとでも言える各特徴をどのように認識し自分の持っている魚のイメージに重ね合わせ、それが魚であると認識するのか。その仕組みと特徴をもっと知りたかった。

魚であれば、紡錘形で尾びれのある「形」、ウロコなどの「テクスチャ」、魚っぽい「色」、または動画であれば魚らしい「動き」など。これらを観察すると同時に私たちが持っている脳のデータベースに保存された魚の特徴データと照らし合わせる。その時脳内でいったい何が起きているのか、言語野との関係性は。さらに人は魚をある程度記号化して表すことができる。魚のシェイプを単純化してピクトグラムのようにしても多くの人がそれを魚であると認識する。だがこの場合どこまで簡素化しても魚と認識できるか。またピクト化、単純化をあまり行う習慣のない、例えば奥地に住む少数民族などには単純化された形態がどう認識されるのか。

どこまで簡素化しても魚と認識できるか




さらに、単なる魚の写真と美しい魚の絵画では、その絵画に芸術的価値を感じる人とそうでない人に脳内でどのような反応の違いがあるのか。など興味は尽きない。ただし猿の脳に電極を差し込んでシナプスを計測することはできても人間の健常者には難しいだろうから、そこは別の方法が見出される必要があるだろうが。

ここからは私の考えだが、
以前にも書いたが、人間の脳は事象を単純化し理解する性向がある。複雑なものを極力単純な仕組みの集合に還元して理解しようとする。そのためどうしてもある程度強引な単純化も起こりうる。だが複雑なままで理解が進まないより、誤差や誤謬を含みながらも一応理解する、いや正確にいうと「理解したと思い込む」ことの方を脳は良しとする。単純化が困難な時は「いろいろある」と言って単純化するくらいだ。

これは脳は事象を単純化する方向には正の、つまりポジティブなベクトルが働き、複雑なままにすることまたはさらに複雑さの度合いを高める方向には負の、つまりネガティブなベクトルが働くということを意味する。

要するに脳の価値観のベクトルは一般的に複雑から単純に向かっているということで、対象を対象たらしめておくことが可能な場合、要素を加え複雑化することより、極力減じてそのモノの持つ特質を失わない範囲で単純化することの方が美しいと感じる、ということではなかろうか。

誤解の無い様に言っておくが、これは絵に多くのモノを描き込むより少ない方がよい、という意味ではない。脳は単純なモノを好むのではなく、単純化を好むのだ。

もちろん対象をそれとわからなくなるほど単純化することは意味の喪失となるため認められない。この単純化と意味喪失のボーダーラインを仮に「美の地平」または「意味の地平」と呼ぶことにしよう。この地平は人によって様々である。

芸術、特に美術は、絵画であれ彫刻であれ題材となる対象が存在する。対象は現実に存在する人や果物、壺や景色などはもちろん、実際には存在しない空想のモノでも構わない。実在しようとしまいとモチーフとしての対象が存在することに変わりはない。

この対象を美術は必ず何かを引き去って単純化する。例えば絵画であれば立体から平面に空間の次元を落とし単純化する。また細部を省略しフォルムを際立たせたり、単純化の手法は様々だ。

一方、彫刻は立体のままである。そのため別のモノを差し引く。最もよく使われる手法は色の省略だろう。また対象の持つスケール感、つまり正しい大きさの表現を差し引いたりする。通常彫刻は大理石やブロンズの素材で作られ、人物像などは実際より大きかったり小さかったりが多い。そしてこれらに現実の色に近い着彩が施されることはない。着彩されたリアルサイズの彫刻なんて美しいどころか、気味が悪いモノになりかねない。マネキンや蝋人形に抱く感情だ。

脳は単純化が好きなので、絵画や彫刻は事象の単純化であるから脳の嗜好にピッタリ合う。
つまり美術とは脳が望む単純化に沿った形で体現されていると言える。

白黒写真が白黒というだけで作品ぽく見えるのも同様の理由からだろう。つまり脳が好む単純化のプロセスを外部委託したような結果に脳が満足するからだ。

話は変わるが、現代美術はほぼ1世紀をかけた壮大な実験であったが、すでにこの実験は終了している。

100年かけて美術を作り出すためのいくつかの手法を見いだし実践してきたのだが、現代美術の最も特徴的でありかつ現代美術が終焉を迎えた最大の理由に、これら手法の多くが常に変化することを現代美術成立の条件としてしまったことにあった。カンディンスキーの手法はカンディンスキーで始まりそして終わる。次の世代は違うことを見つけなければならない。常に「見つけた者勝ち」だった。この見つけた者勝ちのゲームは、さらにエスカレートして始めてだったら何でもいい、に置き換わり、多くの駄作も生み出した。現在でもバンクシーなど相も変わらず続いている。しかし現代美術は、そうだね、ラウシェンバーグが消されたデクーニングのドローイングを発表した時点ですべての実験が完了、つまり現代美術は終わった、としてよいのではなかろうか。

さて、「やった者勝ち」のみのくだらない流行はさておき、現代美術の手法のひとつに、美術作品が持ち絡み合うさまざまな要素を分解し、特定の要素に特化する、というものがあった。例えば美術作品の持つ、テーマ、フォルム、構成、対比、色彩などから、他のモノを消し去り例えば色彩だけを特化したり構成だけに特化したものなど。これなどは先の単純化と同じように働き、先の白黒写真と同じ理由で脳が満足する。

もちろん意味の地平に沿って単純化すればそれで芸術となる、というような単純なものではない。つまり意味の地平に沿った単純化は芸術のための必要条件であるが十分条件というわけではないからだ。