1967年の映画、フランス人の監督が西ドイツとイタリアで制作した映画。DVDは日本語字幕入りが紀伊國屋書店から出ている。
映画は日本でも確か六本木のシネヴィヴァンで上映され、その時は表題の「年代記」ではなく、「アンナマグダレーナバッハの日記」という題だった。その時の冊子があるが確かに「日記」とある。
写真左:紀伊國屋から出ているDVD、右:ユーロスペース発行の冊子
表題だが、ドイツ語のChronik、英語のChronicleをどう訳すかだが、私は日本語の「年代記」がもつ大げさな雰囲気よりも、「日記」の方が映画の内容に即しているように思えるのだが、どうだろう。
モノクロで94分。音楽映画だが音声はモノラルで音質はよくない。映像はもっと酷い。だが、バッハの音楽が好きなら観て損はない。いや観ることをお勧めしたい、素晴らしい映画だ。
製作・監督・編集はダニエル・ユイレとジャン マリー・ストローブ、夫婦である。
出演はバッハにグスタフ・レオンハルト、ケーテン候レオポルトにニコラウス・アーノンクール、この二人は説明の必要がないくらい有名な音楽家だ。残念ながら二人とももう亡くなってしまったが。
二人に共通することは、ピリオド楽器による古楽演奏のパイオニアとして多くの録音を残していること。この二人が共同で行った録音にバッハのカンタータ全集がある。バッハはライプツィヒの聖トーマス教会の音楽指導者(カントル)だったときに、教会との契約で宗教行事ごとに新しいカンタータを書いていたので、毎週のミサに加えて大小の宗教行事ごとに作曲を行った。
カンタータ全250曲ほどのうち現存する200曲全集である、録音は一大事業と言えるだろう。
アンナマグダレーナ・バッハはクリスティアーネ・ラングという元音楽家、北オランダフィルの主任指揮者だったハンス・ドレヴァンツの奥さん。だが結婚後は本作への出演を除き引退していたらしい。
この映画について語る前にDVDについている28ページの小冊子と、このユーロスペースの136ページの冊子について触れておこう。
まずはDVD付録の小冊子だが、なかなか読み応えのある内容の濃いものだ。DVDを入手したら読むことをお勧めする。
キャストや演奏者や曲目に関する詳細情報と、日本人数名の寄稿のほか、製作者であるジャン マリー・ストローブのインタビュー記事があり、どれもなかなか良い。
特に、映画の中でその大半を占める演奏シーンについて、その場所や演奏の詳細が書かれているのがうれしい。残念ながら先の聖トーマス教会のオルガンは、現存するものはバッハの時代のものではなく、19世紀に大きなものに作り替えてしまい撮影には使えなかった。
従って映画の中では、別の教会のオルガンが使われているが、どこの教会で撮影されたかもこの冊子に書かれている。
この小冊子で最も読むべきは、ジャン マリー・ストローブのインタビュー記事だろう。なぜあそこまで地味なカメラワークなのか、なぜレオンハルトなのか、また映画の始めからバッハが亡くなるまで30年近い年月が経っているにもかかわらず、レオンハルト演ずるバッハの容姿がが全く変わらないのはなぜか、そうしたこの映画を観た人なら少なからず感じるであろう疑問に対する回答がこのインタビュー記事の中に書かれている。
次にユーロスペースの冊子本の方、こちらも読み応えのある冊子本だ。寄稿者は音楽研究家の他、ピアニストの高橋悠治や蓮実重彦の名まである。蓮見がバッハ?と興味津々である。
巻末にはシナリオと称し、映画のすべての画面の写真と画像、台詞が収録されている。
この映画では、台詞のほとんどは、アンナの回想で、自分の日記を誰かに読み聞かせているように進行する。それに合わせてバッハの演奏風景や教会でのできこと、自筆譜、さらにアンナ自身の演奏シーンなどで構成されている。
その流れをこのシナリオはすべての画像と台詞を掲載することで、映画とは異なった見方でこの作品を楽しむことができる。つまり川に船を浮かべ川下りをする映画的視点から、気球に乗って上空から川を見下ろす俯瞰的視点だ。当然ながら見える景色は異なってくる。
さて本題に入ろう。
レオンハルトが扮するバッハが年をとらないとか、なぜ容姿が似ていないレオンハルトが、というのは置いといて、この映画の特異なカメラワークについて話をしよう。そうすれば容姿に関する謎も自然に解けるからだ。
この映画では演奏するバッハは斜め後ろからカメラアングルで撮られたものが多い。蓮見はこれを後ろから眺めると言うことは「労働を意味する」、と解説し、高橋は「実際の演奏家が聞く音に近い位置」と解説している。このななめ後ろのアングルはこの映画においてとても重要なこだわりである。だが残念ながら蓮見、高橋の説明は正しく説明しているとは言えない。
まずは蓮見、これが労働であるなら、別のシーン、たとえばアンナがパルティータを演奏するシーンでも斜め後ろからなのはなぜか説明できない。足下では娘が人形で遊んでいる。どう見ても「斜め後ろ=労働」ではない。
キーボードパルティータを練習するアンナ
また、後半バッハがフリードリッヒ王の求めに応じ6声のフーガを作曲しながら演奏しているシーンは斜め後ろではなく真横からのアングルだ。
この6声のフーガは高度な作曲でまさにバッハは努力してフリードリッヒ王の期待に応えたわけで、額に汗しての作曲作業、正に「労働」だ。
逆に映画のはじめの方のアーノンクール演じるケーテン候レオポルトとの共演で愛らしい「ヴィオラ ダ ガンバとチェンバロのためのソナタ」を演奏するシーンではバッハが後ろ姿で、蓮見の言う「労働」だ。
だが、このソナタの演奏が「労働」で、6声のフーガの作曲、演奏が「労働ではない」というのはどう考えても納得がいかない。
高橋の「実際の演奏家が聞く音」は蓮見より少し説得力があるが、では音にこだわった映画なのか、と聞かれれば声もないだろう。斜め前と斜め後ろの音の違いを映像で表現する映画。説得力がない。そもそも「演奏者に聞こえている音と同じ音が今あなたにも聞こえていると想像してください」なんてあまりにも不自然だ。映像作家がそんなチープなお願いをオーディエンスにする訳がない。
ではどうしてか。この映画は、ノンフィクションではない。史実に基づき使用楽器や撮影場所など齟齬がないよう注意が払われている。だが完璧ではない。作者ストローブもそう考えていた。ストローブはこの映画を「この映画で、これがバッハだと言うつもりは必ずしもありません。この映画はむしろレオンハルト氏についての映画だと言うことができます。」と述べている。誤解されやすい言い方だが、つまりこの映画は、「バッハとバッハを演奏するに値する演奏家たちによる音楽と映像の新しい体験」なのだ。バッハの時代を感じると同時に、優れた演奏家の演奏風景に触れることができる、コンサートや伝記映画では体験できない世界がここにある。
この映画を観る人はアンナマグダレーナの目と心を通してバッハを現在最高のバッハ演奏者の演奏活動を眺めるというとてもユニークな状況を受け入れることになる。そのためのアンナの視点が斜め後ろなのだ。
この映画ではアンナは夫バッハと一言も会話をしない。アンナはいつも見守るだけだ。つまり、ある意味「オーディエンス」だ。
だが、そのまなざしは、尊敬と愛だ。尊敬と言うより畏敬に近い。バッハがアンナのために用意したパルティータを一心に練習するアンナ。手紙を書きながら読むバッハを見守るアンナを見れば「労働」や単に「愛」ではなく「畏敬と愛」であることがはっきりわかる。ストローブはアンナ役のクリスティアーネ・ラングを見たときに「一目惚れ」したらしいが、こういうシーンはその「一目惚れ」が結実したシーンと言えよう。
何もできずに見守る、のではなく、我々オーディエンスの音楽体験のために見守る視線として演出した、とも言えよう。
なぜなら、この映画を観るような人はこの映画のアンナ同様、バッハに「畏敬の念」を持ちバッハの作品を愛して止まないからだ。
蓮見はこの映画を暴力的と言っている。例によって小難しい言い方で煙に巻くが、要は「退屈で辛い映画だが我慢した者には見終わった時に自由の感覚が与えられる」みたいなことを書いている。これには笑ってしまった。小学生がじいちゃんに連れられてお寺に坊さんの説教でも聞きに行くようだ。
そうではない、楽しい楽しい「新しい音楽体験」の映画だ。



