2021年7月31日土曜日

オーディオの雑誌


今日は久しぶりにオーディオ雑誌を買ってみた。
私はオーディオマニアではないので、今までもほとんどオーディオ雑誌を買ったことがない。
今日はカミさんと娘がワクチン接種だったので、近所の病院の往復だが心配なので付いて行った。
私も数日前に接種が終わり、その時はカミさんが付いてきて待っている間スーパーで買い物をしていたらしい。

今日は二人が病院にいる間、私も時間つぶしにパン屋でパンを買い、本屋で立ち読みをしていた。あまり人の多くない所で、そこでこの雑誌を見つけペラペラと眺めていたら、終わったよー、とメッセージが届いた。まだ3分も見ていない。まあこれも何かの縁と思い、読みかけのこの雑誌を小脇に抱えて迎えに行った。1600円くらいと安かったし。


オーディオ雑誌というのは、オーディオ評論家とか雑誌の執筆者によって、市販のオーディオ機器のレビューや紹介などが掲載されている雑誌で、他に音質の良いレコード盤やCDなども紹介されることもある。

残念ながら、記事の内容はどれも似たり寄ったりで全く信憑性に欠けるもので読む価値は全くない。もう、ほんとうに笑ってしまう「音の細部まで表現する」とか「おしつけがましいところがない」とか「情報量が多い」とかもう毎回同じ単語やフレーズの使い回し。たぶんこの人たちはメモ用紙に「批評用語集」を持っているに違いない。

ではなぜ買ったのかというと、アナログオーディオプレーヤーは見た目が好きだから写真をペラペラと眺めたかったから。
オーディオ機器の中で、レコードプレーヤーは別格なのだ。レコードをのせて回転する佇まいは、とてもよいものだ。
なので、「世界のアナログプレーヤー」というタイトルに惹かれて買って帰った。

ちなみにレコードプレーヤーというのはレコードを回転させる装置で、音を拾うのはプレーヤーに付いているカートリッジなので、音質はカートリッジで決まる。

カートリッジをつけるトーンアームもそこそこ重要だ。

カートリッジはレコード盤に刻まれた微細な溝をトレースし電気信号に変えるので、振動を極端に嫌う。なのでレコードプレーヤーは振動しないことと、回転が一定でムラがないことが求められる。それ以上でもそれ以下でもない。

微細な振動はどうしても避けられないから、それを味付けにするような傾向も見られるが間違っている。

なので、レコードプレーヤーのターンテーブルは、様々な音のある空間で無音レコードを再生し、再生ノイズを計測すればその性能がはっきりするはずだ。

だがこういう雑誌でそういうことをやったのを見たことがない。なぜか?

実験結果を掲載すると、点数の低かったメーカーは怒って、広告掲載を打ち切るぞ、と脅すからだ。なのでなんだかよくわからない前述の使い回し批評のオンパレードになる。

レコードプレーヤーは回転装置なので、せめて軸受けがどうなっているかくらい横並びで比較があっても良さそうなものだがそれもない。

ひたすらメーカーの意味不明の定性的な宣伝文句がならぶ。オーディオがオカルトと呼ばれ完全に廃れてしまった元凶は今も健在だ。

ユーザー紹介ページも、そもそも耳がもうダメでしょ?という老人ばかりだ。

いい音でいい音楽を聴きたい、なんて特別なことでも何でもないと思うのだが、やれやれ困ったものだ。

まあ写真はキレイだったので、ペラペラ眺めるのは楽しかったけど。

2021年7月25日日曜日

ライトテーブル(トレース台、フィルムビューワー)



20年前に描いたスケッチ。懐かしい。

イラストの仕事で時々、ライトテーブルを使うことがある。ウチのはもう20年以上も前に買った富士フイルムのライトテーブル。光源は蛍光灯。

20年前なのでまだLEDタイプは無かったか、あっても性能が良くなかった。

写真左側のライトテーブル。蛍光灯だから厚さが6センチくらいある。
フィルムビューワーとしてはほぼ完璧で、20年以上故障無しで使ってきた。
発光面に明るさのムラは無く、インバータ式なのでちらつきも無い。またインバーター式にありがちなノイズや他の機器への影響も無かった。当時1万5千円くらいだったと思う。



だが、トレース台として使うにはいろいろ問題があった。厚みがありすぎて少々無理な姿勢になること。サイズがA4と小さいので、描きやすいように紙を少し斜めに置くことができないこと。などなど。

最近またペン画を描く仕事が増えてきた。

そこでLEDタイプのトレース台を購入することにした。今回はイラスト用なので、トレース作業のしやすさを第一に選ぶことにした。

ヨドバシやアマゾンで調べると安いものはA4サイズで2千円くらいから高い物はA0サイズ30万円以上と、まさにピンキリだった。

大型作業台式は必要ないので、A3サイズでデスクに置いて使うタイプで探すことにした。

こういうとき、実物を見ながら決めることができればベストだが、このご時世難しいだろう。そこで通販を利用し、スペックやレビューなどを見ながら決めることにした。もちろんレビューは当てにならないものも多いので注意が必要だ。

特にアマゾンは3000円くらいの安物でも○○先生推薦などと書いてあるものが並んでいてかなり怪しい。

いろいろ悩んだ挙げ句、条件を、日本製で放熱対策をきちんとしてあること、照度が明記してあって十分なこと、とした。

で、見つけたのが写真右側のもの。日本製で進光社という会社のトレース台。
会社のホームページを見ると、いかにも実直な会社という感じ。悪くない。
驚いたのは富士フイルムへのOEM供給をしていることだった。家のフジのフィルムビューワーも実はこの会社のOEM生産だった。

よし、決まった!
この会社の製品にしよう。

で購入したのが、LEDビュワー5000A3という商品。値段はアマゾンで18200円。値段も中国製の粗悪品に比べれば高いが、十分リーズナブルと言える。

残念ながらヨドバシには無かったので、アマゾンで注文した。アマゾンはサクラレビューが多いこと、偽物や最近は法外な価格での転売など、楽しい買い物ができないので、あまり使いたくない。だが品揃えはヨドバシの比ではない。うーん。頑張れ、ヨドバシ!

さて、届いた製品は使いやすく、照度も十分。かなり明るいがトレース用紙が薄くて明るすぎる場合は下に紙を敷けばよい。これ、割と重要なことだが、厚手の紙、例えばケント紙にトレースするような場合、明るさが足りないと細部が見えにくく結構キツい。だから少し明るすぎるくらいのほうが汎用性が高い。

このトレース台は明るさは2段切り替えとなっていて、普通の紙なら暗い方でも十分。また、3時間くらい連続して作業してみたが、全く熱くならなかったのもポイントが高い。LEDとはいえ発熱はそこそこあるので、安物はそのあたりがいい加減で心配だ。30分くらいでじわーっと熱くなってきてはかなわない。

発光面にムラも無く、表面はフレーム部もフラットで引っかかりが無い。A3サイズでありながら強度もあり、ゆがまない。完璧だ。

電源は付属のACアダプターで、12V1.6Aでジャックは5ミリのセンタープラス。標準的だ。

唯一の欠点は本体のスイッチが少々かたく、オン・オフを頻繁に繰り返す作業はやりにくいことだ。

トレース作業では、時々スイッチを切り、表面の紙を少し浮かして絵をチェックすることがある。そんな時にちょっとこのスイッチは辛い。まあそこだけはそのうち少し手を加えることにしよう。

全体的にはとても気に入っている。
おすすめのトレース台だ。

2021年7月22日木曜日

遊園地の乗り物のデザイン


忙しくてブログの更新が停滞気味。
今日はほぼひと月ぶり、テーマはアミューズメントパークのライドのデザインの仕事。

実はだいぶ前に完成していたが、なかなか写真を撮る機会がなかった。

先日ようやくその機会を得たので、撮影に行った。天候にも恵まれ、いい写真が撮れたのでアップしておこう。

デザイン作業はいろいろ苦労もしたが、こうして完成して子供たちが(大人も)楽しそうに乗っているのを見ると、よかったなー、と思う。





仕事の内容はほとんどブログには書けないが、これはすでにプレス発表も終わり一般向けにオープンしているので例外的に紹介することができる。

そうね、お子さんが乗っているシーンを柵の外から写真やビデオに撮ると乗り物がカラフルでかわいいので絵になると思う。

少し写真が上達したなら、流し撮りに挑戦するのもいいだろう。
シャッタースピードをわざと少し長く、1/10秒くらいにして子供の乗った乗り物をカメラで追いながらシャッターを切る。すると背景が流れていい感じで動きが表現できる。ピントはC-AF、うまく合わないならMF置きピンで。レーシングカーでは難しいけど、これならスピードも速くないし初心者でも大丈夫。

2021年6月27日日曜日

言語・思考・現実


B・L・ウォーフ著「言語・思考・現実」を読んでいる。仕事が忙しく、最近の読書は主に出かけたときに電車で、というのが多い。

だがコロナ禍で打合せなど外出の頻度があまりに低く、まったく読み進めることができない。さすがに時間がかかりすぎなので家でも読むことにした。
B・L・ウォーフ著「言語・思考・現実」



ちなみにすごくおもしろい本なのだが、翻訳が悪く意味不明の箇所が多い。この手の本ではめずらしいことではない。

記憶にあるのは、学生時代にチャールズ・ジェンクス著、竹山実訳「ポストモダニズムの建築言語」という本を大学のゼミで読んで、教授に「何度読み返しても意味不明の部分がある」と言うと、オリジナルの英語版を読んでごらん、と言われた。

読んでみるとものすごく明快簡単で、どこをどう訳したらこんな意味不明の日本語になるのか、と思ったことがある。

以来、わかりにくい翻訳は原書を読まないまでも、原書の表現を想像しながら読むことにしている。理解が早い、おすすめの方法だ。

チャールズ・ジェンクス著、竹山実訳「ポストモダニズムの建築言語」



竹山実は原書にない自分の建築作品を加えるというとでもないことを平気でやっている。あきれたものだ。右端の写真、学生だった私も大きく「X」をつけているのには今見ても笑ってしまった。訳がひどいので原書を参考に書き込みの嵐だ。

ウォーフ著「言語・思考・現実」も同じ、そのままの日本語は意味不明が多い。

さて、この本の論旨は「言語の違いはものの見方や考え方に多大な影響をもたらす」というもので、映画「Arival(邦題はメッセージ)」の着想の原点となった本である。

映画では言語により時間が関知される対象として未来も過去もわかってしまうというぶっとんだ話になっていたが、SF映画なのでそういう「世界定め」と割り切れば全く問題ない。おもしろい映画だし。
映画「Arival(邦題はメッセージ)」のBD



音楽はヨハン・ヨハンソンとマックス・リヒター。
音楽もいい。

この本では認識と情報伝達について書かれたところがとても興味深かったので、今日はそのことを書こうと思う。

本書では「バラの茂みのことを思う時」というなかなかしゃれた例を挙げて説明している。

バラの茂みのことを思う時、人の意識は実際のバラの茂みではなく、代用物として、心の中のにある「バラの茂み」のイメージと情報交換を行う、というのだ。

この話を読んで思い出したのが、編集工学研究所の松岡正剛著「知の編集工学」第3章の編集的コミュニケーションモデルに関する話だ。


 松岡正剛著「知の編集工学」



松岡正剛が若い、しかしなぜ表紙に顔写真なんて使ったのだろう?これでは怪しいビジネス書か「絶対儲かる△□」「超△□術」みたいだ。朝日文庫の編集者にそそのかされたのかね? でもなかなか良い本だ。編工研-松岡の本ではこの本と「情報の歴史」というのがたいへん良い。もう一つ「全宇宙史」という良書があるのだがなかなか手に入らない。

右がその情報伝達の解説ページ、松岡は「編集」という彼お得意の何にでも使える魔法の単語を使って説明している。

情報伝達理論で最も有名なのがシャノン・ウィーバーのコミュニケーションモデルだろう。

シャノン・ウィーバーのモデルとは、情報は以下の経路を経て伝達される。

1.送信者→2.トランスミッター→3.シグナル→4.レシーバー→5受信者    である。

松岡はこれを、もともと送信者と受信者は等価であり、コミュニケーションは、シャノン・ウィーバーのモデルのように一方からもう一方へ不可逆的に伝達されるのではなく、A送信者兼受信者とB送信者兼受信者が互いのまわりに場を提供し、その場をAとBとで共有する、という。つまりまず共有イメージ空間をつくる。で、そこで相手の繰り出したイメージをきっかけにお互いがイメージを投げ合って、そして両者間で納得のいく共通感覚を得たところでコミュニケーションが成立したとする。というものである。これはもちろん「相手が納得するまで話し合う」という意味ではない。Aさんがこう言いました、Bさんがこう理解しました。というごく単純なコミュニケーションでも起こっている、コミュニケーションの基本を表している。

松岡はベーゴマ遊びに例えている。

ウォーフの考えも同じと言えるだろう。そしてウォーフは投げ合うイメージは言語に大きく左右され、これはコミュニケーションだけでなく、むしろ知覚認識において顕著だと述べている。

つまり何らかの知覚、認識、理解においては言語による持てる情報の質と量が重要ということになる。ベーゴマを持っていないとベーゴマ遊びには参加できないとうことだ。

またウォーフは、非空間的感覚を空間用語を用いて比喩を行う、「共感覚」についても述べている。

例をあげると、「幅広い知識」というときの「知識」というのは「空間」とは全く関係ないものだが、「幅広い」というのは空間を表す用語であり、知識の種類や量を表すのに空間用語を比喩的に用いている。

だが一部の民族の言語ではこのような比喩は用いられない。ウォーフは言語による違いから空間や時間の捉え方や比喩を含めた活用のしかたに大きな違いがでてくる、と述べている。

私が着目した点は、先に述べた情報伝達や認識とこの空間用語を用いた比喩によって、認識や理解、アイデアの創出において何らかのバイアスがかかったり、或いは障害となってくることがあるのではないか、という点だ。

もともと人間の脳は複雑な系をそのままにしておくことを好まず、すべてを単純な系に還元する傾向がある。しかも真偽を見極めることなく。

簡単に言うと「無理矢理でもわかりやすい事象として片付ける」ということだ。

これは人間の生きるための知恵であって、誰しも必ず持っている「能力」である。

人間の知覚や認識の感覚において、空間の把握というのは最もわかりやすいものであり、「大きい・小さい」「広い・狭い」や「深い・浅い」はどんな馬鹿でも考えずとも理解できる。

そこで脳は理解の難しい題材を空間用語を用いて比喩を行い、あたかも理解したかのような錯覚をおこさせ「一件落着」とする。

だが本来もう少し詳しく考察、観測または思考すべき事柄も、往々にして空間用語で比喩することでその手続きを止めてしまうということも起こりうる。そうなると当然十分な理解は得られない。

物事を本質的に理解しない、できない元凶のひとつがここにあるのではないだろうか。

さらにそれだけでなく、その先、つまり発想や創出においても。

例えば「新しいアイデアが出てこない」のはイマジネーションが乏しいからではなく、そもそも事象を言語的に比喩を用いることで不十分に理解することと、加えて、むしろこっちが重要なのだが、アイデアの場をそうであることを意識せず空間用語で充満させ、比喩の沼に飲み込まれてしまっているからではなかろうか、と。

空間用語には、位置関係の他に運動や観測点などもある。さらに空間用語だけではなく、時間用語、音楽用語なども同様に比喩に用いられる。


これらを用いた比喩を観測から取り除くこと、または別の比喩に変えることなどで、理解の袋小路から出られるかもしれないし、創作が行き詰まった時にも同様、解決の糸口が見えてくるかもしれない。

どうだろうか。

ちょっと試してみるのもおもしろそうだ。

2021年6月26日土曜日

ベルク「7つの初期歌曲」

Studio SSはNdAのPhoto studioです

アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲、ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ響のCD

ヴァイオリン協奏曲を様々な演奏家で聞き比べたくて購入したCDだったが、この中の「7つの初期歌曲」が素晴らしかった。

ソプラノはスザンナ・フィリップスというアメリカの歌手、知らなかった。あまりCDも出ていないが、2018年のニューヨーク、メトロポリタン歌劇場オペラでプッチーニの「ラ・ボエーム」公演のムゼッタを演じて好評だったらしい。



そしてこの「7つの初期歌曲」はすごくいい。先日レコードで購入したハンニガンより明らかにうまい。
ちょっとぽっちゃり太っていて、やはりそのせいか声に「ハリ」があり、とても安定している。

さて、ベルクの7つの初期歌曲はどれも詩がすごくいい。シュトルムやリルケなどの詩にベルクが曲をつけたものだ。

聞いたことあるのはこ2人だけであとは知らない詩人だったけど。

リルケは誰でも知っているだろう。

シュトルムは「みずうみ」という短編を読んだことがある。かつての恋人との回想を美しい文体で綴った小説だったと記憶している。あとで図書室に探しに行こう。

図書室ですぐに見つけることができた。

新潮文庫、訳はドイツ文学者の高橋義孝だった。ペラペラとページを繰ると思い出した。

大学進学で故郷を離れている間にかつての恋人は他の人と結婚してしまった。みずうみのほとりで再開した2人だったが、過ぎ去った青春は戻らないことを知り、去って行く。年をとり、若い頃を回想しながらかつての恋人への想いを語る話。

さて、7つの初期歌曲は、ライナーノーツによると、ベルクがまだシェーンベルクの弟子だった1905年頃にピアノ伴奏のソプラノ曲として作曲され、1928年に管弦楽伴奏として改訂されたとある。

1.夜
2.葦の歌
3.ナイチンゲール
4.夢の冠
5.部屋の中にて
6.愛の賛歌
7.夏の日々

どれもウィーン世紀末の、あの空気を持っていていい。
特に良かったのは「葦の歌」と「ナイチンゲール」かな。
ドイツ語だがなかなか良い和訳が見つからないので、ライナーノーツの英訳も参考に「葦の歌」を訳してみた。

葦の歌
ニコラウス・レーナウ作

森へとつづく秘密の小径
夕暮れの光の中、ひっそりと歩くのがいい
誰もいない葦原へ
そして君を想う
藪が暗く繁り
葦がカサカサと不思議な音をたてる
その嘆きともささやきともいわれぬ声に
私は泣く、そう泣くのだ
私は感じる
今、あなたの声を聞いているのだと
静かに湖に沈んでいく
あなたの愛らしい歌声を


どうです、いいでしょう?

これにベルクの曲がつき、しかも愛らしいスザンナ・フィリップスがあまり感傷的にならず、美しく量感たっぷりに歌う。

もう1曲、せっかくだからシュトルムの「ナイチンゲール」も頑張って訳してみよう。こっちの方が難易度が高い。

ナイチンゲール
テオドール・シュトルム作

それは一晩中鳴いていたナイチンゲールのせい
その甘い歌声
響き、そしてこだまする歌声に
バラのつぼみも開いた
お転婆娘も、今ではすっかり思慮深くなった
夏の帽子を手に持ち、静かに陽射しに耐えている
だが彼女は知らない、これからどうしたらよいのかを
それは一晩中鳴いていたナイチンゲールのせい
その甘い歌声
響き、そしてこだまする歌声に
バラのつぼみも開いた

うーん、イマイチだね。今度再挑戦しよう。

ギル・シャハムのヴァイオリン演奏を聴きたくて買ったCDだったが、当のシャハムは今ひとつだったが、このソプラノが聴けてこ良かった。音楽のこういう出会いはレコードやCDでは体験できても、ストリーミングでは決して体験できない。

仮に同じ曲集を聞いても聞き手側の意識が発動しないからだ。
私は映画や音楽のストリーミングサービスをほとんど利用しないのはこれが理由だ。

さて、もう少しベルクの歌曲のCDを聴いてみようかね。




2021年6月14日月曜日

ベルク「ヴァイオリン協奏曲」


アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲だが、ここ【<音楽>ファム・ファタールとベルクの「ルル」】で、イザベル・ファウスト+アバド モーツァルト管弦楽団の演奏と、クリスチャン・フェラス+プレートル パリ音楽院管弦楽団の演奏について書いたが、もう少し他の演奏を聴いてみたくなったので、ギドン・クレーメルやムターその他のCDを聴いてみることにした。


左上:ギドン・クレーメル
右上:ムター
左下:フェラス
右下:ファウスト

フェラスの演奏は少し物足りないが他はどの演奏も特徴はあるが優劣つけがたい。

最も特徴がはっきりしているのはファウストの演奏だろう。この曲をこれほどまでに痛々しく演奏したものはないだろう。演奏も素晴らしい。だが、ほんとうにこれでよいのかな、という微かな疑問がどうしても頭から離れない。今回新たに、ギドン・クレーメルとムターのCDを買ったのも、このファウストの演奏がどうしても引っかかっていたからだ。

この曲は若くして亡くなったマノンのために書かれた曲だ。作曲の依頼はヴァイオリニストからのものだったが、作曲の原動力はマノンだ。マノンはアルマ・マーラーとワルター・グロピウスの娘で、アルマと交友があったベルクがとてもマノンをかわいがっていた。美人で頭のいい娘だったらしい。

このヴァイオリン協奏曲は2部からなり、1部はマノンとの思い出、2部は死とレクイエムから成る。

1部では、かわいらしいマノンをヴァイオリン、それを見守るベルクがオーケストラの低い音の旋律だ。

先のファウストの演奏に関するわずかな違和感は、この1部のマノンをあまりに悲痛に演奏していることだ。辛く悲しいのは2部の前半で、1部はそんなに悲痛な演奏に固執しなくてもよいのではなかろうか、また2部の後半はレクイエムであり、最後は亡きマノンの魂が永遠の安息と絶えざる光のもと天に昇る穏やかな雰囲気がほしい。もちろん演奏者の解釈はいろいろあって良く、ファウストが間違っているなどとは全く思わない。そもそもこの曲は2部の悲壮な旋律の一部が1部にも繰り返し使われているので、ファウストの解釈は間違いとは言えない。全編を通して悲痛な曲とする解釈だ。

だが私の思い描くこの曲のイメージと少し違っている。なのでもう少し聴いてみたい。

まずはギドン・クレーメルの演奏から。
Vn:ギドン・クレーメル
コリン・デイヴィス指揮、バイエルン放送交響楽団、1984年
繊細な演奏で、この曲のお手本のように聞こえる。間違いなく名盤と言えるだろう。だが第1部の演奏はそこまで神経質でなくても、と感じる。
そう、それならいっそファウストの方がおもしろい、と思えてしまう。第2部は完璧だ。

次にムター。
Vn:アンナ・ゾフィー・ムター
ジェームズ・レヴァイン指揮シカゴ交響楽団、1992年
この人は情緒感たっぷりに第1部はすごくいい。あまり暗い影を落とさず、思い出を回想する雰囲気が良く出ている。たいへん美しい。ヴァイオリンもオケも。
だが第2部前半の緊張感が少したりない。だがこういうのもいい。間違いなく名盤だ。

次は少々古く、グリュミオー。
Vn:アルチュール・グリュミオー
イゴール・マルケヴィッチ指揮ロイヤルコセルトヘボウ管弦楽団、1966年
さすがに少々古くさい。50年代のアメリカ映画のBGMみたいだ。1小節から8小節までのハープに続くシンメトリーな導入部分はこれではちょっと辛い。ここにはマノンもベルクもいない、楽譜があるだけだ。ちょっと残念。だが一緒に入っているストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲はとてもいいので、CDとしては良いかもしれない。









1小節から8小節、ハープとソロヴァイオリンのパート、ベルクお得意のシンメトリー

さて、この曲の第1部は生前のマノンとの思い出だが、この曲に限らず、さらに音楽以外でも、こういう回想シーンのように、心の状態を表すのに音楽はたいへん効果的だ。特に映画などでは顕著だ。

ただし、映画では映像により、多少の自由度はあれ想起されるイメージはほぼ一元化されるのに対し、純粋に音楽だけの場合は、想起されるイメージは聞き手のイマジネーションに委ねられる。

映画なら誰が見てもそれとわかるが、純粋に音楽だけでは気がつかないこともある、ということだ。

気がつかないリスクはありながら、いや、だからこそ、逆に音楽は、聞き手側が想起するイメージの自由度が大きくなる。
まあそれこそが音楽のおもしろいところでもあるのだが。

ベルクのヴァイオリン協奏曲でも、例えば第1部を少し聴けば、どの音がマノンでどの音がベルクかすぐにわかる。ただし、マノンの方はマノンだが、ベルクの方はベルクでもあるしアルマやグロピウスでもある、そして私やあなた自身でもある。

そして想起されるイメージは千差万別だ。
つまり、私やあなたが、会ったこともない少女を回想するのだ。自由度どころではない。
映画では感情移入によって、主役=観客=私たち、が回顧する。

映画では、映像が主であり、音楽が副である。音楽は見えないものを表したり、場の効果を盛り上げる。わかりやすい音楽で全員一致で同じ方向に導くこともあれば、そうでなく、私たちにある程度自由に想像させることもある。

だがあくまで映像が「主」で音楽は「副」だ。

ここで少し脱線するが、現代音楽は、純粋に音楽としては商業的にはあまり成功しなかった。だが、映画、とりわけホラーやサスペンス映画などの効果音楽としてはたいへん成功した。現代音楽は人類が千年以上かけて積み上げてきた音楽の分解や破壊が主体となったものが多い。だが創造的破壊には世紀単位で時間がかかるが、単純否定と要素分解なら数時間で誰でもできる。なので結果はひどい物も多かった。まあ、おもしろいにはおもしろいのだが。

不協和音や不快音の連続、12音階は、まさにホラーやサスペンス映画に、最適だった。

もちろん全ての現代音楽がそうだということはない。そしてこの「最初にやった者勝ち」の「単純破壊・分解・一要素の摘出」ではない何かに現代音楽が世紀を超えて価値をもつ理由があったはずだ。

ベルクのヴァイオリン協奏曲もそのひとつといえよう。

さて、もう少しこの曲の他の演奏を聴いてみよう。

次は、ギル・シャハム
Vn:ギル・シャハム
ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ響
2021年の演奏
最新の録音で少し期待していたのだが、まあまあかな。繊細さがたりない。技術だけで弾いているように聞こえてしまう。決して悪い演奏ではないのだが。



最後にバイバ・スクライドとネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のこれはBlu-ray。

演奏にはあまり期待していなかったが、映像が見られるので買ってみた。
その通りで、演奏はまあまあ。だが演奏風景は実に良かった。

さて、ここではレコ芸ではないので番付はなしだが、ギドン・クレーメルとムターのが良かったかな。時々ファウストも。そんなところかな。

今週は、ずっとこの曲を何度も何度も聞いていたが、さすがにちょっと聴きすぎだ。

少し間をあけてまた聴いてみよう。

左上:アルチュール・グリュミオー
右上:ギル・シャハム
下:ネルソンスのBlu-ray




2021年6月6日日曜日

オッフェンバック「ホフマン物語」



「ホフマン物語」は作曲家オッフェンバックが作曲したオペラで、オッフェンバックが1880年に死去したため未完となったが、草稿ををもとに補完され1881年に上演された。

オッフェンバックといえば最も有名なのは「天国と地獄」だろう。この曲を知らない人はいない、運動会で何度も何度も流れる曲だ。

オッフェンバックは、オペラより、オペレッタやオペラ・コミックを得意とした作曲家だったので、ヒットはしたが文化人の評価は低い作曲家だった。

だがこのホフマン物語は4幕の正式なオペラだ。
あらすじは、青年ホフマンが酒場で仲間に自分の恋物語を語って聞かせることことから始まる。

プロローグ:歌劇場の隣の酒場で

第1幕、オランピア:魔法のめがねをかけさせられたホフマンは、機械人形のオランピアを人間の美少女と思い込み恋に落ちるが、最後に人形が壊れ、恋破れる。

第2幕、ジュリエッタ:娼婦ジュリエッタは彼女の恋人にホフマンの影を盗むようそそのかされる。娼婦相手に本気になるものかと言っていたホフマンだが最後はメロメロ、まんまと影を盗られ、笑われ、恋破れる。

第3幕、アントニア:歌の上手なアントニアは、有名な歌手だった亡き母と同じ胸の病で歌を止められている。ホフマンはアントニアと婚約する。だがアントニアは悪い医者と母の亡霊にそそのかされて禁じられていた歌を狂ったように歌い死んでしまい、恋破れる。

エピローグ:再び最初の酒場、語り終わったホフマンは今にも死にそうだ。そこに隣の劇場からやってきたバレエのプリマを見て、彼女に過去の恋人達を重ね見ながら倒れるが、詩人として蘇る。幕。

原作は、作家E.T.A.ホフマンの短編集。岩波のホフマン短編集には3つの話のうち2つが入っている。オランピアの原作が「砂男」、アントニアの原作が「クレスペル顧問官」だ。





そのうち「砂男」はホフマン物語だけでなく、ドリーブのバレエ「コッペリア」の原作でもある。

なのでこの3つ、原作である「砂男」、ホフマン物語「オランピア」、バレエ「コッペリア」比べながら楽しむのもよい。

あまり詳しく書くと楽しみが台無しなので書かないが、結末がどれも違う。コッペリアはバレエなのでストーリーがシンプルなハッピーエンドだ。ホフマン物語は前述の通り失恋で終わる。では原作の「砂男」は?これは文学なのでバレエやオペラよりやや複雑だ。そして文学ならではおもしろさがある。

さて、ホフマン物語のDVDにつては、1951年の映画版があり、これが良くできているのでおすすめだ。だが何しろ古いので画質も音もあまり良くない。最近レストアされたブルーレイが発売されたので、見るならブルーレイの方が良い。古いDVDは4:3で両側がカットされているので。しかしブルーレイも音も画質もある程度は改善されているが、エンジニアリングがヘボであまり期待するとがっかりする。ちょっと残念だ。

さて、そんな訳で満点とは言えないがこのレストア版のホフマン物語だが映画版なので、オペラ好きには少々物足りないかもしれないが、観て損はない。

たとえばオランピアの歌のシーンは、オペラではひどいものが多いのだがこの映画では素晴らしい。機械人形であるオランピアが歌いながら踊るシーンだ。

ホフマンは魔法のめがねをかけているので、人形が人間の美少女に見える。だがまわりの人には美しい人形にしか見えていない。ここをどう演出するか?

まわりの人間のひとりとして見れば、ホフマンを笑う立場だ。

めがねをかけて心を奪われているホフマンに感情移入して見るならオランピアは理想の女性だ。どちらを取るか?

少し考えれば小学生でもわかりそうだ。だが数あるオペラの演出はなぜか前者ばかりなのだ。

中にはわざと寄り目にして壊れかけた人形のように歌うものもあるくらいだ。

いったいどうしてそうなるのか、いくら考えてもさっぱりわからない。四谷シモンのように人形を愛せ、とまでは言わないが、あれはひどすぎる。

その点、マイケル・パウエル制作のこの1951年の映画は実に素晴らしい。この映画ではオリンピアを当代きってのバレリーナであったモイラ・シアラーに踊らせ、吹き替えの歌手をソプラノ歌手が歌っている。

そしてこのモイラ・シアラーの踊りが素晴らしいのだ。これならホフマンでなくとも恋に落ちる。モイラ・シアラーとマイケル・パウエルは本作の数年前に映画「赤い靴」を制作している。アンデルセンの「赤い靴」だ。興行的には「赤い靴」の方がヒットしたが、私は「ホフマン物語」の方に惹かれる。

赤い靴が普通の映画であるのに対し、ホフマン物語は幻想劇だ。ステージではないが舞台で演じられている。オペラに近い。モイラ・シアラーも赤い靴ではしゃべるものだから二流女優になってしまう。だが人形に徹しているシアラーは凜としていい。

なのでイチオシはこれ。

映画ではなく舞台公演のDVDであれば、おすすめは1981年イギリスロイヤルオペラハウスの公演。ホフマンにドミンゴ、完璧だ。他の歌手も多くが良い。

また、セットがすごい。それだけでも観る価値があるくらいすごいセットだ。ただし81年なので画質はまあまあだ。そこは仕方がないところ。




左:モイラ・シアラーのオランピアのBlu-ray
右:ドミンゴのホフマンのDVD

最後に

オペラは舞台公演なので、当然だが観客は客席から観る。だがDVDや最近はBlu-rayが多く出ているので、これらは当然歌手のアップのシーンを多く取り入れる。

それはそれで新しい楽しみ方として良いのだが、反面、舞台メイクの歌手が不自然に見えるものも少なくない。このDVDでもドミンゴは青年ホフマンを演じるには少々歳だし、オランピアもアップはかなり辛い。だが2人とも歌はうまい。

実際の公演で観客席から見るアングルでは違和感はそれほどないだろう。だがアップの連続のDVDでは所々違和感を感じる。

どうなんだろう、カメラをほとんど観客席のS席最後列あたりからの定点を基本として、ところどころアップを入れるような、そんな基本方針で編集するのもありではなかろうか。もちろん全てのオペラをそうすべき、などとは思わない。ネトレブコの清教徒なんてアップのネトレブコがすごくキレイだし、これを定点にしたらもったいないのは百も承知だ。だが作品によっては客席からの視点で通した方が、楽しめるものも結構多いようにも思う。

2021年6月3日木曜日

撮影上達のために



写真上達に向けて

写真に興味を持ちカメラを買って、はじめは近所の散歩にも必ずカメラを持って出ていた人が数ヶ月経つとほとんど使わなくなり、というのはよくある話だ。

もし1ヶ月以内にそうなったら、写真はさっさとあきらめ、カメラを中古で売り飛ばし、スマホに帰るべきだろう。こういう人は絶対うまくならない。

同じく、カメラの扱い方が難しくて説明書を見てもよくわからない、なんて人も同様だ。

そうではなく、扱い方はだいたいわかった。でも数ヶ月いろいろチャレンジしてみたが、なかなか気に入った写真が撮れない。こういう人は、心配する必要はない。絶対うまくなるので。

よく、初心者が上達するには、たくさん撮ること。そして人に見せること。と言われる。

だが私は少し違うのでは、と考えている。

もちろん撮らないより撮るに越したことはないし、人に見せて意見を聞くのも同じく、やらないよりやった方がいいだろう。だが、やみくもに数だけ撮れば良いわけではないし、人に意見を聞くと言ってもそう簡単ではない。

私のおすすめ方法は次の通りだ。
1.少なくとも週に一度は撮る(これはやっているね、問題なし)
2.撮るものが決まったらカメラの前に、まずは1分くらい自分の目で眺めながら撮り方を考える。

考えた内容は忘れないよう覚えておく。

(どう言ったらいいかな、例えばスィーツのビュッフェ食べ放題のようなもの、と言ったらどうかな。食べられる量には限界があるから、なるべくおいしそうで少し高そうなのを選ぶ。このとき味見なんてできないから、見た目で選ぶ。つまり見極める力が大活躍する。一緒の友達がどう見ても不味そうなバナナのパフェなんてものを選んでいたら、内心どう思う?ヘェ〜、なんで夕張メロンのタルトやシャインマスカットのジュレを選ばない?となるでしょ。それだ。それと同じ。選ぶ力を身につける、ちょっと無理があるか?、でもまあ、そういうこと。)

3.実際にカメラで撮影する。やみくもに何十枚も撮らず、一枚づつ丁寧に撮る。ブレることもあるので二枚ずつでも良いが。

(あまりにもたくさん撮ると帰ってから見るのがいやになるし、どうしてそれを選んだか、画角にしたか、なんておぼえていない、なのでだめ)

4.家に帰ったら、撮った写真を一枚づつ眺めて、今日のベストを一枚選ぶ。

5.事前に考えたことが実際にどうだったかをベスト一枚とともにブログでもSNSでもいいので文章に書く。長文の必要はないが、うまくいったこと、いかなかったことを必ず含める。

できれば次はどうやるかのアイデアも書く。(ここが大事、後述の「言語化」)

以上を毎週必ずやる。忙しいからを言い訳にしてはいけない。風邪で1週間寝込んでいた、なんてことがない限り必ずだ。

さて被写体探しに、参考になるのが、以前ここでも紹介したヨドバシカメラのサイト、フォトヨドバシだ。特別な場所ではない日常の場所をうまくとらえた写真が多い。そこの写真をただ漠然と見るのではなく、お気に入りを2つ3つ見つけたらまねして撮ってみることだ。

自分で撮った写真と、フォトヨドバシの写真を比べて、何がだめなのかを観察する。

その際、それをそれをキチンと「言葉」にする。

時々、「何もかのダメ」とか「どことは言えないがとにかくダメ」なんてことを言う人がいるが、こういう人は写真より前に「日本語」の勉強が必要だ。

漠然とした感覚を「言葉」にすることを「言語化」という。これが実はそう簡単ではない。イマイチだということはハッキリしているのだが、どこがどうイマイチなのかがわからない。いや、わかっているのだがうまく言い表せない。言い表せないので、どうにもならない、そのままになってしまう。上達しない。

必ず「言語化」するよう心がける。
言語化にはもう一つメリットがある。それはその単語を使ってイメージ検索することで参考になるデータを検索することができるからだ。

あとはいろいろ工夫してみる。

このブログで少しずつ紹介してゆくが、撮影場所を工夫する、撮影方法を工夫する、など、やり方はいろいろだ。
まずはカメラの基本操作方法をマスターし、街に持って出よう。



思いっきりアンダーで撮って、島のシルエットと空だけにした。




キャンドルではなく、キャンドルの影を撮ってみた。



普通に撮ってもつまらないので、わざと被写体ブレを狙って撮ってみた。




あまり普通の人が行かない夜の工業地帯に行って撮影してみた。


技術的なことはもう十分理解していますね。
もう一度聞きます
・AモードとSモードの使い分けについて理解していますか?
・露出補正をマニュアルを見ないで10秒以内にできますか?
・どんなときISO感度を上げますか?10秒以内に変更できますか?
・被写体にピントを合わせたあと、そのピントを維持したまま画角の調整ができますか?
・被写界深度について理解していますか?設定できますか?
では、また

2021年6月2日水曜日

ファム・ファタールとベルクの「ルル」

ファムファタール(フランス語Femme fatale)とは、直訳すると「運命の女」だ。fataleには単に「運命」というより「致命的」といったニュアンスがあるので、「あなたは私の運命の人です」のような意味でなく、「男を破滅させる運命の女」ということになる。


男を破滅させる女なんて小説や映画では数え切れないくらいたくさんある。わかりやすくておもしろく、そしてスリリングで色っぽい、つまりエンターテイメントの要素がばっちり入っている。

しかも、その女性は絶対に魅力的でなければそもそも物語が成立しない。

だが、それだけではどれも似たようなストーリーになり、飽きられる。そこでアメリカ映画では得意のドンデン返しでオチをつくる。

主演女優が誰かで注目を集め、色っぽいシーンで評判を呼び、オチでかろうじて映画の体(てい)を繕う。

それはそれでよいのだが、ファム・ファタールというと、どうも方向性が違っていると思うのは私だけだろうか?

そもそもアメリカ映画では、単純に「ファムファタール=悪女」だ。
ドンデン返しで悪女ではなかったというのもあるが、本質的には何も変わらない。

しかし、本来ファムファタールとは、必ずしも悪女である必要はない。
あくまでも結果としての破滅であって、悪意による破滅とは限らないからだ。

そういう意味で良くできたファムファタール作品の一つにベルクのオペラ「ルル」がある。

作曲者のアルバン・ベルクは19世紀末から20世紀初頭にかけての現代音楽の作曲家で、代表作にオペラ「ルル」のほかに「ヴァイオリン協奏曲」がある。

シェーンベルクに師事し十二階音を取り入れた作曲手法だが、メロディがある程度残されており、無調ではない。

「ルル」についての前に、ヴァイオリン協奏曲のことを少しだけ。
このヴァイオリン協奏曲は素晴らしい曲で、ベルクは当時作曲中だった「ルル」を中断して仕上げた曲だ。
献辞に「ある天使の思い出に」とある。




ベルク、ヴァイオリン協奏曲のCD
左:イザベル・ファウストとアバド モーツァルト管弦楽団
右:クリスチャン・フェラスとプレートル パリ音楽院管弦楽団
聞くなら、圧倒的に良いのは左のファウストのCD

よく使われるジャケットの絵は、クリムトのイレーネ・クリムトの肖像。

イレーネクリムトは画家クリムトの弟の娘。弟が早くに亡くなり、クリムトは残された夫人と娘の面倒をみていた。ちなみに夫人の姉とクリムトは愛人関係にあった。

この曲の献辞の「ある天使」とは、親交のあったアルマ・マーラーとマーラーの死後再婚した夫グロピウス(建築家、バウハウスの校長)の娘マノンのことで、マノンが若くして亡くなり、その訃報にベルクはルルを中断してこの曲を2ヶ月ちょっとで書き上げた。

ちなみにアルマ・マーラーはものすごくモテた女性だった。

マーラーと結婚する前は画家のクリムトと付き合い、その後師事していた作曲家ツェムリンスキーからもプロポーズされている。結局周囲の反対を押し切ってマーラーと結婚したものの数年でうまくいかなくなり、画家のココシュカや前述のグロピススと付き合い、結局はグロピウスと再婚、マノンが生まれた。ベルクはアルマはそういう関係ではなかったようだが、アルマがベルクをかわいがっていたらしい。確か7歳くらいアルマが年上だった。

19世紀末というのは音楽や絵画などがたいへんおもしろかった時期だ。

絵画では、ベルギーのアールヌーヴォーは言わずもがな、ドイツでのユーゲントシュティール、イギリスではリバティスタイル、オーストリアでは分離派などなど実に美しくそして楽しいムーブメントが時代を彩った。音楽でももちろん様々な新しい試みや素晴らしい作品が多く誕生した。



ウィーン世紀末の歌曲集のレコード。オペラ「ルル」ではひどい演出でボロボロだったハンニガンだが、このレコードはいい。

アルマ・マーラーの曲、アルマの先生だったツェムリンスキーの曲、ベルクやシェーンベルク、ウェーベルンなど。どれもいい。そして音もいい。限定版で1000枚のプレスらしい。まだあるかな?ウチのは300番台だったが。

さて、ベルクだが、この曲を仕上げた後すぐに病死してしまい、「ルル」は未完成となった。

現在は未完の第3幕はベルクの手稿をもとに後に追加されて、全3幕のオペラとして完成している。

ルルの原作は、ヴェデキント作「地霊・パンドラの箱」という2編の戯曲(演劇のための小説)で、ルル2部作と呼ばれている。


ルルの原作「地霊・パンドラの箱」

オペラ「ルル」のあらすじは、

貧民窟のルルはシェーン博士に拾われ愛人関係を続けながら、医事顧問官の男と結婚させられる。画家がルルの絵を描くがルルの美しさにルルを押し倒したところにちょうど医事審問官が帰ってきてあらびっくり、心臓発作で死ぬ。ルルは画家と結婚するがルルの過去を知り耐えられずに自殺してしまう。その後ルルはシェーン博士の息子(作曲家)の作品の踊り子となり舞台に立つようになる。そこにシェーン博士も婚約者と観に来る。ルルは婚約者と一緒の彼を見て、楽屋で「あなたと私は離れられない」と説き、婚約を解消させる。

結局シェーン博士と結婚したルルだったが、貧民窟時代に関係のあった男や他の怪しい男達、同性愛の伯爵令嬢たちとルルとの関係に絶望し、ルルに自殺するよう迫る。ルルは渡されたピストルでシェーン博士を撃ち警察に捕まる。舞台上ではサイレント映画「ルルの逮捕・裁判・投獄」が上映される。

投獄されたルルは先の伯爵令嬢がうまく入れ替わり脱獄に成功するが、怪しい男達のもとに戻ったものの、彼らにゆすられる羽目になる。ルルは逃亡し、逃亡先のロンドンで売春婦となる。シェーン博士の息子、伯爵令嬢も一緒だ。ある日、売春客とのトラブルでその博士の息子も死ぬ。最後はルルも客の切り裂きジャックに殺される。

ヴィーデキントの原作もほとんど同じだ。

ルルと関係のあった、男達が次々の死ぬが、ルルによって殺されたのは自殺を迫ったシェーン博士一人で、それも言わばシェーン博士の自業自得とも言える。だがシェーン博士の気持ちもわからないでもない。

博士はルルに我慢ができない。もう限界だった。普通は別れておしまいだが、それができない。ルルの魅力のためだ。そこで自殺するよう迫る。

貧民窟で育ったルルには、そもそも一般的なモラルも常識も通用しない。ただ賢く、そして何より特別美しかった。つまり絶対的な価値を持ち、人間が作り出した価値と無関係というのがルルの本質だ。

まわりにしてみれば「価値観の崩壊が起きながらそこから目をそらすことができない状況」だ。

私はファムファタールの本質はここにあると考えている。

「既成の価値観の否定」というのは人には辛い、私にもあなたにも。もし既成の価値観の否定が大好きだ、という人がいたらその人は、相当オツムが弱いか嘘つきだ。

だが、既成の価値観を「100%信頼している」という人もまずいない。

ファムファタールとは、価値観の否定に対して「少しは疑ってかかるべき」という受け入れやすい領域を遙かに超え、「命にかかわるぎりぎり」くらいまで刃先が到達する状況なのである。当然受け入れられない。

ルルの原作者ヴェーデキントという人も、作品が認められないばかりか投獄されたりと散々な人生だったようだ。

音楽界においても大多数の価値観の崩される作品は同じような運命にある。ファムファタールではないが、有名なのはストラヴィンスキーの春の祭典だ。歴史に残る初演大失敗バレエだ。観客の野次とブーイングで劇場は大混乱、警察まで出動したらしい。だが、現在ではその音楽もニジンスキー演出のバレエも20世紀を代表する音楽として高く評価されている。

つまり、初演当時は音楽界の常識やバレエの常識を大きく逸脱し、価値観を否定したものだったと言える。

音楽界のファムファタールの初演大失敗の代表はヴェルディ作曲の「椿姫」だろう。

椿姫はルルほど過激ではなく、関係する男が次々に死んだりしない。だが観客の目に明らかなのは、椿姫を取り巻く男どもが実につまらない連中なのだ。サロンに出入りする男達だ。そしてそれはこのオペラの観客そのものなのだ。それらを無価値なものだと切り捨てる。

ファムファタールのオペラは他にもある、「カルメン」や「蝶々夫人」などだ。

いずれも魅力的な女性の、男性社会の既成概念にとらわれない役どころという意味では共通だ。そしてこれらすべて、初演は大失敗に終わっている。つまり受け入れられない、観客にとって不愉快なものなのだ。

だが時間は常に正しい物差しを提供し続ける。初演は大失敗でも、時間が経つにつれ評価は変わり今ではどれも傑作として歴史に残っている。

だが、どれだけ時間が経っても正されないものもある。たとえばカルメンだ。

今ではカルメンなどは見たことはないけど内容は知っているという人も多い。悪女にたぶらかされる男の話、くらいに思っている。だが、カルメンはたばこ工場で働く普通の女の子だ。だがめちゃくちゃカッコイイ女の子なので、隊長さんが一目惚れ、恋仲になる。でも隊長さんはつまらない人なので、闘牛士に乗り換え、怒った隊長さんに殺される。

私にはこれがどうしてカルメン=悪女になるのかさっぱりわからない。むしろダメダメ隊長さんというべきと思うのだが。男側の身勝手な価値観を肯定するとカルメンは悪女と呼ばねばおさまらない。考えてみれば、他にイイ男ができて今の恋人と別れて新しいのと付き合う、なんてフツーを通り越して退屈なくらいよくあることだ。むしろ、いなくなった女をいつまでもウジウジ想い続けたり、つきまとったり、復縁を迫ったりの方がよほど犯罪だ。だが当時は気の毒な隊長さん、自由奔放な悪女カルメンなのだ。今でも教養のない人はそう思い込んでいる。

さて、ルルに戻ろう。

ルルにとって結果的に良かったのは、完成したのが作曲家ベルクの死後だいぶ経ってからだったことかもしれない。時代がようやく作品に追いついた頃完成した。

ルルは外見は顔もスタイルもパーフェクトな女の子だ。だが常識は通用しない。だから常識的な考えでフツーに生きてきた男は吸い寄せられ破滅する。自ら崩壊する。

彼らにはルルのような絶対的な美など無縁であり、常識的というレールの上を何事もないよう生きる以外に生きる方法を知らない。つまり脱線=死だ。男達はルルが自分と同じレールの上を一緒に歩んでくれると期待するが、無駄だ。男達は悩んだあげく、レールからルルの方へ飛び降り、そしてそこで終わる。

だから観客には受け入れられない、絶対にヒットなどしない。
観客は「わからない」か「苦しむ」か「自分には関係ない」のどれかだ。
「わからない」人は素直で、「自分には関係ない」人は間抜けだ。

「苦しむ」人がその苦しみをおもしろがれることのみが唯一の救いであり、それこそがファムファタールの存在意義と言える。

わざとらしいアメリカ映画ではなく、そういう真のファムファタールの登場を切に希望する。



アルバン・ベルク作曲オペラ「ルル」のDVD
左から、
クリスティーネ・シェーファーのルル

シェーファーがうまい、育ちの良さそうな雰囲気がちょっとルルとは違うが、それを差し引いてもたいへん良い。このDVDの最大の魅力はなんと言ってもグレアム・ヴィックの演出の素晴らしさだ。ウィーン世紀末の持つ雰囲気を最もよく再現している。

次がパトリシア・ペティボンのルル。ペティボンがいい。イメージに最も近いルルと言える。だが残念なのが演出だ。どうでも良いところに力を入れ、肝心な所が手薄だ。もったいない。それでもペティボンの魅力で十分観る価値がある。

ちなみにペティボンはもう1つルルを演じたDVDがあるがあまりおすすめしない。

アイヒェンホルツのルル。アイヒェンホルツは割とキレイな歌手なのだが、どうしたことかこのオペラでは意地の悪そうな悪女にしか見えない。セットはもっとひどい。オペラ史上最も手抜きのセットだ。歌手陣の服も自前か?制作サイドのだれも真面目に考えていない。残念ながら観る価値はない。

ハンニガンのルル。
ハンニガンはあまり好きな歌手ではないのだが、時々すごく良い。先のウィーンの世紀末のレコードなどはたいへん良い。だがここでは最悪だ。だがこのDVDに限って言えば、ハンニガンのせいではない、演出が最悪だからだ。観る価値はない。




ヘンテコな演出のおけげで客席で歌う美しいペティボンのルル







2021年6月1日火曜日

レンズについて(追加編)


 


レンズについてを前編と後編で2回説明したが、今日は追加編。

カメラのキットレンズではどうしても撮れない写真がある。今日は追加レンズの説明。

 

どうしても「こういうの」を撮りたい、でもキットレンズでは無理、という時のために参考にして欲しい。

 

キットレンズで無理なのは、2種類ある。

焦点距離がキットレンズの範囲を超えるものと、最短撮影距離がとても短いもの。

 

まず焦点距離について。

キットレンズはズームレンズがほとんどで、その焦点距離は日常の撮影でよく使う範囲となっている。広角〜中望遠だ。

広角側は28mm(フルサイズ換算、以降も同様)が多い。

つまり28mmより広角での撮影はできない、ということだ。具体的にいうと例えば室内でなるべく広い範囲を1枚で写したい時に限界がある。

 


 

広角18mmで撮影した室内




28mmの撮影範囲(明るい部分)


ずいぶん写る広さが違う。

ただし、28mmより焦点距離が短い広角では画像のひずみも大きくなるので注意が必要だ。広々とした部屋に見せて実物を見てがっかりということにもなりかねない。

 

しかしその独特の描写を活用し、おもしろい構図の写真を撮ることもできる。



超高層ビルやアトリウムなど、空間をユニークにとらえることができる。

 

望遠について。

望遠は、キットレンズの場合80mm相当くらいまで、ダブルズームキットなら200mmから300mm相当くらいまでと製品によってかなり差がある。キットレンズより高い倍率で写真を撮るなら別途望遠レンズが必要になる。

ただし望遠レンズは手ぶれしやすいし、倍率が高い分暗いレンズが多い。明るい望遠レンズはすごく高価で大きく重い。

なので、明るさはあきらめ、ブレないように三脚を使うかISO感度を高めるしかない。

300mmを超える望遠が欲しくなるのは、野生動物・野鳥の撮影、月や土星などの天体、そして最も一般的なのは運動会で子供の写真を離れたところからある程度大きく撮りたい場合だろう。

 

ただし、運動会なのでは画質は良いに越したことはないが、そのために高い望遠レンズを買うより、高倍率ズームのコンパクトデジカメの方が良いかもしれない。

 

次に最短撮影距離だが、例えば小さな花を大きく撮りたいとき、葉についた水滴を拡大して撮りたいときなどは、キットレンズでは無理だ。最短撮影距離のため、それ以上近づけないからだ。そこで小さいな物を拡大して撮る、つまり最短撮影距離がとても短いレンズがある。マクロレンズだ。マクロレンズは風景やスナップにも使える物が多いが、小さな物を近づいて拡大して撮影できる。たとえば500円玉をほぼ画面いっぱいに拡大して撮影することができる。

 

マクロレンズは単焦点レンズが多いので、カメラを持って被写体に近づいたり離れたりして大きさを調整する。ピントはオートフォーカスでも良いが、マニュアルでどこに合わせるか自分で調整することも多い。花などの場合、花のどの部分に合わせるかなどなかなかオートフォーカスだけでは難しいシーンも多い。

ある程度今のカメラに慣れ、キットレンズでは近すぎてピントが合わずのイライラすることが多いようなら安いマクロレンズを1本持っているだけで、だいぶストレスがなくなるだろう。

また、マクロは被写体の宝庫とも言える。キットレンズで普通に撮ってもあまりおもしろくないものもマクロで拡大するとおもしろくなるものがあるからだ。

 



例えばバラの写真、マクロならこのような写真も可能だ。

 



ぱっと見、平凡な花でも一部を拡大するとこんな風に撮ることができる。

 

最後にマクロレンズでの撮影でのポイント。

屋外で花などをマクロレンズで撮影する際の最大の敵は「風」だ。ほんのそよ風でも花や葉はかなりゆれる。するとピントを合わせにくいし、画角も決まらない。そもそも被写体がブレてしまう。

なので風が強い日はあきらめる。少しの風だったら、カメラを右手だけで持ち、左手で花や葉の茎を軽く押さえて撮る方法もある。ただしカメラをがっちりホールドできないので、シャッタースピードは少し早めになるようにする。1/100秒より速ければ大丈夫だろう。日陰や曇った日でどうしてもシャッタースピードが遅く(長く)なる場合は、ISO感度を高くする。数を撮ってブレていないのを選ぶ、という手もある。いろいろ試してみるとよいだろう。

 

2021年5月26日水曜日

レンズについて(後編)

前回はレンズの基本として主に焦点距離について説明した。

今回は続編としてもう少しレンズのことを説明しよう。

 

まずは前回のおさらい。焦点距離はレンズの倍率を表し、数字が大きいほど倍率が高い。24から35mmを広角、50mmあたりを標準、80mm以上を望遠と呼ぶ。

 

広角レンズで近くから撮った写真は望遠で遠くから撮った写真と同じくらいの大きさになるが、背景が大きく異なる。

 

絞りは絞るほど被写界深度が深くなる。逆に明るいf値のレンズで絞りを開放(一番開く)にすると被写界深度はとても浅くなる。

 

さらに、上記の特徴を踏まえ、撮影して試してみることをおすすめした。

 

残念ながら、春の花のシーズンは終わってしまったので公園に行ってもアジサイくらいしか咲いていないが、アジサイでも違いを十分実感できるはずだ。

 

また、フルサイズセンサーを基準にすると、APSCで1.5倍、フォーサーズでは2倍の焦点距離と同じくらいの倍率になることも説明した。

 

レンズは同じ焦点距離でも値段にずいぶん差がある。大きな理由の1つは明るさ、つまり解放f値が小さいレンズほど値段が高いが、それだけでなく、以下の性能によっても値段が変わってくる。

1.写真がすみずみまでシャープに写るかどうか(解像度)

2.写真がゆがんでいないか(変形)

3.写真の四隅が暗くなっていないか(周辺光量落ち)

4.逆光で不自然な光が写り込まないか

5.ボケの品質

などなど、さらに操作のしやすさ、レンズの重さ、外装の質感なども評価の対象となる。

そしてこれらの多くで高いポイントのレンズは非常に高価なものになる。

 

もちろん、性能の良い高価なレンズを使えば、それでイイ写真が撮れる、と言うわけではない。

 

たとえて言うなら、同じ材料を使って料理しても、

最高のコックが、安い道具で料理したものと

下手なコックが、最高の道具で料理したもの、とどちらがイイですか、と言うことになる。答えるまでもない。

 

なので、レビューや評価記事などを読んで、その気にならないことだ。つまり、このレンズを買ったらイイ写真が撮れるかもしれない、などと考えないことだ。 

 

さて、本題に移ろう。

今日は最短撮影距離とボケについて簡単に説明する。どちらもある程度は気にする必要があるからだ。

 

最短撮影距離というのは、どこまで近づいてピントが合うか、のことだ。

例えば最短撮影距離が50cmであれば、50cm以上近づいたらピントが合わない。つまりそれ以上近づくことによって大きく撮りたくてもできない、ということになる。

実際の撮影では、例えばひまわりは画面いっぱいに撮ることができても、小さなスミレでは画面いっぱいができない、といったことがおきる。

 

50cmと言われてもピンとこないだろう。まずは手持ちのレンズで、小さな物がどのくらい大きく撮影できるか、例えば500円玉などを使って確かめてみるとよいだろう。

 

通常、望遠レンズは最短撮影距離が長く、広角は短い。だが広角はもともと広く小さく写るレンズなので、近づけてもあまり大きくならない。なので望遠で遠くから撮影した方が良い場合も多い。

 

また望遠の撮影では前回説明したように画角が狭いため背景の写る範囲が狭い。狭いということは少しカメラの位置が変わるだけで背景が大きく変化する。つまり背景をコントロールしやすいということだ。

 

さらに望遠は広角に比べて被写界深度が浅いので背景がボケやすい。

ごちゃごちゃした背景を避け、静かな背景をボカすことで花が浮き上がって見える。簡単にそこそこ雰囲気のある写真を撮ることができる。

 

例えば花を撮る時など、普通は写す花を良い角度で、と考えがちだ。だが、花そのものより背景に気を配った方がいい写真が撮れることも少なくない。

キットレンズでは開放f値はそれほど明るくないが、望遠で少し離れた所を背景にして開放で撮ればそれなりにボケてくれるので、ぜひ試してみてほしい。

できれば広角や標準レンズで撮影したものと比べてみるとその違いがはっきりするのでおすすめだ。

 

くどいようだが、非常に簡単に、かなりいい写真が撮れるようになる。

大切なことなので、ポイントをもう1度書こう。

 

花を撮る時、

1.望遠レンズを使う。

2.その花がよく見える角度より、いい背景になる角度を選ぶ。

3.絞り開放で背景をぼかす。

 

さらに言うと、カメラを持って立って人間の目線で花を見ると、通常は見下ろしになる。すると背景はあまり期待できない。


4.カメラを持って少ししゃがんで、液晶モニターをチルトして見る。


すると花をヨコから見ることができ、背景は少し離れた木々の緑などが選べる。距離もあるのでボケやすい。ごちゃごちゃしていないイイ雰囲気の背景を選ぶことができる。

 

これだけで素人とは思えない写真が撮れる。

あじさいなどでは花が大きいので、花のどこにピントを合わせるか、被写界深度を浅くするか、すこしだけ深くして背景はボケても花は全体にピントを合わせるか、など選択肢も多い。

これも簡単だ。あれこれ悩まずに、絞りを少しづつ変えて撮ってみればよい。

それを家に帰ってパソコンのモニターでチェックすれば、実に楽しいこと請け合いだ。


上の写真は、花の写真2回目のウチの娘がオリンパス入門機のダブルズームキットで撮った写真。

望遠使って解放でヨコから撮ってごらん、背景だけ気にしてね。

アドバイスはそれだけ。

アングルとピントは今ひとつだが、安いダブルズームレンズキットのカメラでもこのくらいは超簡単という例、そして世の高級カメラ志向おじさんたちはこんな写真ですら撮れない人が多い。何人も知っている。

 

さて、次にボケについてだが、昨今日本語の「ボケ」は英語にもなり、ボケブームとなっている。そして、いろいろなところで、このレンズはボケが「美しい」だの「うるさい」だの「かたい」だのと賑やかだ。だが気にする必要は全くない。こういうオタクっぽいことにこだわると、どんどん新しいレンズが欲しくなり、写真の腕はさっぱりなのにレンズだけはいくつも持っている、なんてことになる。

 

もちろん、レンズを買ってはいけない、とは言わない。だが、はじめに買ったダブルズームキットの安いキットレンズでもちゃんと良い写真は撮れるから、まずはそれらをすり減るくらい使って撮影することだ。ボケの質は背景がごちゃごちゃしていなければ、キットレンズでも全く問題ない。

さらに、いつもボケ、ボケ、ボケではなく、被写界深度を深くしてあえてぼかさない写真も撮ることだ。そのボケていない写真の向こうにこそ、次のチャレンジが待っている、とも言えるからだ。


2021年5月22日土曜日

オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」




 「カヴァレリア・ルスティカーナ」はピエトロ・マスカーニ作曲のオペラである。

マスカーニは19世紀後半のイタリアの作曲家だが本作が唯一のヒットと言ってよいだろう。

 

カヴァレリア・ルスティカーナの話の前に「世界定め」について少し話をしたい。

オペラの上演では、演出家が原曲の時代背景などをアレンジし、例えば現代に置き換えたりして上演されることも多い。

この手法は映画でもよく見られる。ギリシャ神話のストーリーを現代に当てはめたり、アジアの話をアメリカを舞台に置き換えたり、その逆もある。


ただしオペラの場合は映画のように自由に変える、ということはできない。

なぜなら歌や歌詞などを変えることは許されないからだ。

また、歌っている内容と矛盾するような舞台にしてしまうと違和感を感じる妙な物となってしまう。

 

ちなみにこういう舞台、つまり、時代、場所、人物像などを「世界定め」という。

「世界定め」とはもともと歌舞伎用語で、「義経もの」など演目の時代や題材などを決めることを指したもので、演じる側はもちろんのこと、客の方も題名から世界を知ることができた。

観客の楽しみのひとつに、今日の演者がどのようにその世界観を演じるかというのがあり、これがいわば通の楽しみ方だった。

 

このような、客側にもある程度知識を求める芸事というのはヨーロッパや日本、アジアでは珍しいものではなかった。さらに、楽しめない人=教養のない人、となり、そういう俗物とは付き合わないのが「通」や「粋」の世界だった。

 

だが最近は見る側の教養を求めないものが多くなってきた。

これはアメリカ映画の影響と言える。誰でも簡単に理解できる世界、ディズニーランドのような世界。

ディスニーランドはそのコンセプトが世界中の誰でもが等しく楽しめる世界の提供らしい。

つまりお客に一切の知識、教養は求めない。それはそれで良いのかもしれないが、中身は当然のことながら薄っぺらくなってしまう。

 

本来「世界定め」はあらゆる文学、音楽、小説、映画、絵画に少なからず影響する大変重要な要素であり、その作品を味わいのあるものにするにも、それを理解するにも不可欠な知識だった。


だから、もし何らかの世界が現前に展開したときにその世界をよく知らないと感じたら、いくつになっても「おべんきょう」するわけで、その「おべんきょう」に卒業はない。


ホイジンガーの「中世の秋」に描かれている人々の考え方、ベルエポックの魅惑と憂鬱の交じったあの空気、20世紀初頭の理想主義における未来への希望と現実への失望など。

興味は尽きない。だから「おべんきょう」する。

 

だがアメリカ式はこういった「おべんきょう」を必要とせず、多くの人々からその機会まで奪ってしまった。


 

さて、カヴァレリア・ルスティカーナだが、

このオペラはイタリア、ヴェリズモのオペラである。

ヴェリズモというのは「現実主義」と訳される文学の運動で、テーマを歴史上のできごとなどではなく、今生きている現代に求めるものだ。今といっても当時つまり19世紀後半から20世紀初頭にかけての「今」である。


イタリアは当時、不在地主らが富を独占し、農民は大変貧乏だった。

そういう社会矛盾を題材にした作品をヴェリズモ、と呼んだ。

だから「現実主義の文学」というより「社会の中の弱者・貧者の物語」と言っても差し支えないだろう。


そしてヴェリズモ文学の代表作がジョヴァンニ・ヴェルガの「カヴァレリア・ルスティカーナ」だった。

オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」はこの原作を作曲家ピエトロ・マスカーニが出版社だかインプレサーリオ(興業コーディネーター)だかの主催のオペラの作曲コンペで発表し、優勝した曲だ。

 

ヴェリズモのオペラの代表曲にはこのほかに、レオンカヴァロ作曲の「パグリアッチ(道化師)」がある。これも同様にコンペへの応募作だったが、コンペの条件を満たしていないため失格となったものだ。だが素晴らしい作品なので上演されることになり、カヴァレリア・ルスティカーナ同様、現在でも評価が高い。

 

この2曲、カヴァレリア・ルスティカーナとパグリアッチは両方とも短いので、上演もDVDなども同時にされることが多い。カヴ&パグ(Cav&Pag)と略されるほどだ。

 

カヴァレリア・ルスティカーナのあらすじは、

復活祭の日、主人公のトゥリドゥは兵役に行っている間に婚約者ローラが裕福な男アルフィオと結婚してしまったので、サンタという別の女性と婚約した。だがトゥリドゥは今でも時々ローラと逢っている。

それを知ったサンタはアルフィオに告げ口する。

トゥリドゥとアルフィオは決闘となり、トゥリドゥが殺されておしまい。という内容。

どこがヴェリズモかというと、ストーリーをこう書けばわかるだろう。

トゥリドゥは貧乏だから兵役に行く、金持ちに自分の女を盗られる。そして最後にその金持ちに無残に殺される。

おわかりいただけただろう。

 

このオペラ、有名なのは、始まってすぐのアリア「おおローラ」、合唱「オレンジの花」そして超有名な「間奏曲」そしてアリア「乾杯の歌」だ。

 

この作品が素晴らしいのには、前述のように短いオペラでありながら名曲が多いのはもちろんだが、サンタという女性の心の葛藤を音楽作品ならではのものとして表現しているからというのが大きい。

元婚約者のローラは美人でサバサバしていて陽気、サンタはたいてい美人ではなくちょっと暗く垢抜けない。演出家もそのあたりをうまく表現する。ローラが現れると場面にパッと花が咲いたように華やかになり、曲もそういう曲だ。だがサンタは違う。そして婚約者の心を憂い、告げ口を悩み苦しむ。有名な美しい間奏曲ではサンタの悩む姿を見せながら曲が進むものも多い。これは普通の人にとって感情移入しやすい、つまり観客の心をつかみやすい役どころであると同時に、歌はうまいが見た目は今ひとつのソプラノ歌手の大活躍の舞台として2重によくできているのである。まさにストーリーも何もかもがヴェリズモなのだ。

 

さて、「世界定め」についてに話を戻そう。

このオペラ、原作の舞台は南イタリア、シチリアの山間部の貧しい村だ。

だがオペラでは前述の通り演出で様々な世界定めの変更が可能だ。

カウフマン主演の2015年ザルツブルグ音楽祭での上演は、舞台が大きく変わって同じイタリアでも、1910〜20頃の北イタリアの工業地帯だ。

そしてこれがなかなかよい。4面構成のダダや未来派を彷彿とさせる舞台構成。歌手陣もよい。

 

チューリッヒオペラでの2009年の上演はオリジナルを意識したオーソドックスな時代背景をモダンでシンボリックなセットで楽しめる。歌手陣も割とよい。

 

2015年のイギリスロイヤルオペラ、コヴェントガーデンでは時代は現代、舞台はパン屋だ。ここまで変えてしまうとちょっと違和感があり、しかも観ていて無理も多い。歌手陣は今ひとつパッとしない。しかも前奏曲の部分で最後に殺されたトゥリドゥが担い出されていくという映画的手法まで使われている。オペラに映画的手法を使ってはいけない。なので賞をもらっているかもしれないが、このDVDはペケ。

 

2019年フィレンツェ音楽祭の上演はブルーレイで画質は良いが、演出はチープでエンジニアも素人、現代に良くある機材だけが最高、というやつだ。

地元の子供たち参加の子供祭りのようで、演奏も歌手陣も今ひとつ、残念ながらペケ。

 

まだいくつもあるが、最後にフランコ・ゼッフィレリ監督の映画版、つまり舞台の上演ではないカヴァレリア・ルスティカーナを紹介しよう。

時代は原作の通り、南イタリア、シチリアの山間部の貧しい村。

だが、これはあくまで映画であってオペラの公演ではない。ただし余計なセリフなどを加えたりせず、音だけ聞いていればオペラの上演と全く同じだ。

違いは舞台でもセットでもなく、村や畑や境界や広場でのロケという点だ。


トゥリドゥをドミンゴが歌う。ドミンゴはこういうのは本当にうまい、さすがだ。しかもゼッフィレリだ。映画好きでゼッフィレリを知らない人はいないだろう。一見の価値がある。古いフィルムなのでDVDで画質や音は今ひとつ、しかも前述のように映画でありオペラ舞台ではないので、この曲のこれがベストだとは言えないが、原作を十分知り尽くした演出で、この物語を理解するにはこれがおすすめだ。

 

願わくば、もう少しオーソドックスな演出で良い演奏者の舞台公演が観てみたいものだ。

すごくキレイだけど歌はそこそこのソプラノ歌手、あんまりキレイでないけどすごく歌のうまいメゾソプラノ。それにちょい悪な雰囲気のテノール。いっぱいいそうだけどね。

 

さて、ヴェリスモは登場人物に、しかも弱者に感情移入できることが第一条件とも言える。それができないリアリズムなどリアリズムとは言えないからである。

しかしヴェリズモオペラは、ストーリーも同じような物では飽きられるし、そもそもオペラ化も難しい。この2作以降は長く続かなかった。

逆に、それだけカヴァレリア・ルスティカーナとパグリアッチがよくできていた、と言えるのだが。

 

オペラとしては長続きしなかったヴェリズモだったが、当時の社会の実情には最も即したものではあった。世界恐慌と第1次大戦から次の大戦へ、貧しい人たちは題材の山だ。

 

また、ヴェリズモ以降、急激にイタリアオペラそのものが衰退していった。イタリアオペラはプッチーニのトゥーランドットで終焉を迎えたといっても過言ではない。


オペラに変わって、ヴェリズモを引き継いだのが映画だ。

ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「ウンベルトD」「自転車泥棒」「靴みがき」などの社会派リアリズムの映画だ。

 

シーカのこれらの映画に共通するのは、貧困と絶望、しかしそれでも何とか生きていく人間の希望だ。

だが見終わってどーんと落ち込むシーカの社会派レアリズムより、美しい曲と弱い人間、そして希望の安売りなどしないマスカーニやレオンカヴァロのオペラの方により魅力を感じるのは私だけだろうか。

 




左上、2015年ザルツブルグ音楽祭での公演DVDだが画質も音も合格点。カウフマンの主人公トゥリドゥも良い。

サンタ役のモナスティルスカは歌も容姿も迫力。



ローラ役のアンナリーザ・ストロッパもきれい。



 

右上、映画版DVD、監督はフランコ・ゼッフィレリ。トゥリドゥをプラシド・ドミンゴ。サンタをエレーナ・オブラスツォワ。舞台ではないことと、81年の制作で画質も音も今ひとつなのが残念だが名作。

 

手前左、2009年チューリッヒ歌劇場での公演。ブルーレイで画質も音も良い。歌手陣も良い。ローラがそれほど美人でなく、サンタがわりと美人というのはめずらしい。

 

手前中央、2019年フィレンツェ五月音楽祭劇場での公演。演出があまりよくない。歌手陣も今ひとつ。

 

手前右、2015年イギリスロイヤルオペラ。演出がひどすぎで、演じている内容と歌と完全に食い違っているのでお話しにならない。オレンジの花が緑の丘に香り・・・という歌のシーンでパン屋がパンを作っている。さらに間奏曲のあと、本来は街の広場で繰り広げられるシーンが狭いパン屋の前で繰り広げられる、どう見ても不自然だ。そもそも全く復活祭の日の出来事というのを無視している。

歌手陣も冴えない。おまけに映画手法のフラッシュバックを取り入れている。オペラを全く理解していない。なのでペケ。